夕暮れ
オイタル
「ただいまァ。」
八月。
庭の潅木が、白い地面に真っ黒な影をいくつも落としています。
暑い盛りです。
四月から通い始めた保育園から帰った娘は、日焼けの顔で畳に膝を落とし、さっそくブロックを持ち出しておままごとを始めます。赤いの青いの色とりどりの、両手からはみ出すような大きなブロックが、周りに山積みです。
「こんにちはァ。いつもどうも。お世話になってェ。」
玄関でお客様に頭を下げている祖母の口真似に夢中です。
姉の帰りに気付いた弟が後ろから近づいて、
「ねえちゃん。」
呼びかけても知らないふりです。
「はいはい、じゃ、お花屋さんにお買い物に行きましょうね。」
「ねえちゃん。」
も一度呼ばれても、まだ知らないふりです。
「ねえちゃん、ぼくもブロック。」
ようやく言葉の意味がわかりかけ、けれど本当はたいしてブロックがほしいわけでもないだろう二歳の弟の、気をひこうとの一言です。
それでもまだ知らないふりの姉の背中に、小さなパンチ一つ喰らわして逃げる弟の背中を、
「ばか。」
怒鳴り声が追いかけます。
夕暮れ。
白いシャツ着た姉と、白いシャツの弟の手を引いて、出かけた散歩のその途中、小川や田圃の入り組んだ風景の全体が、すっと蒼ざめるようなひとときがあります。
遠く長く連なる山陰に夕日が姿を消すとき。その山陰から、薄い紫の夕暮れの空に向かって、無数のオレンジ色の光芒が、放射状に高く激しく吹き上げる一瞬があるのです。空いっぱいの光の噴水です。切れ切れの雲や木々や谷間に飛沫を浴びせ、そしてしばらくその形を残した後、次第に薄れ、滲んで広がる。
ふと後ろを振り返ると、あらゆる生き物の気配が抜け落ちた油絵のような風景、家々の屋根や電柱、緩やかにカーブする舗装道路の表面が、おぼろなオレンジ色の、不思議な気配に包まれています。
一瞬の貧血のような風景。
古びて動かない写真のような風景。
風景そのものがさびて、薄く緑青をふいたような。
黄昏時、遭魔ケ時。
蛇行する道路も、路傍の草も、電線に結ばれたいくつかの電柱も、速い小川も、乾いた壁も、何もかもが静まるひと時。
過去の全ての夕暮れが、自分がだれなのかを思い出そうとしてふと立ち眩んだかのような、夕暮れの夕暮れ。
「遊園地に行こうよォ。」
「ぼくおうち。」
「おんぶ。」
「おみず。」
こもごもに跳ね回り、むこうとこちらとに走り出そうとする姉と弟の、握ったそれぞれの手を握り直して、ふと我に返るその時。
「ああ、もう帰ろ。」
「お家。」
「遊園地はァ?」
「あ。もうお家ね。」
二人の顔に下ろした視線をもう一度上げると、これはいつのまのことか、地上の闇が辺りを木々の高さまで飲み込んでいます。
まだ明るさが残る空。茶わんの底にぼんやり沈むように三人取り残されて、静かに静かに手をつないでいる夕暮れなのです。