桃太郎
竜門勇気
あるところにお爺さんとおばあさんが居ました。
つまり、あるところとはこの老夫婦が住む集落と言えましょう。そして居ました、といっても生きているわけですから、ただ存在しているだけでは食べることすらできません(もちろん、食べなければ排泄も。ゲロも)
ですから、この二人は資産がダブついているか、働いているか、食わなくても平気なことになります。
ここで消去法を用います。まず、資産面ですが資産にじゅうぶんな余裕があればこんなとある所に住んでいません。高級住宅街が妥当でしょう(オートロックつきで勝手に他人が我が家でゲロを吐くこともないし)
次に働いているのであれば、ということですがこれは、全くのナンセンス(ナイスセンスではありませんよ、子豚ちゃん)といっていいでしょう。
今の日本には老人(またはゲロを吐いている老人)を雇用するゆとりなどないからです。
ゆえにこう言えます。
『むかしむかしあるところに、食わなくても平気なお爺さんとおばあさんがいました』
めでたしめでたし。
というわけではありますが、ここで終わると昔の日記の焼きまわしなので続きを書こうとおもいます。
概ね、多くの場合おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯へ行くことでしょう。
しかし考えてみてください。この老夫婦は資産がダブついているか飯を食わなくても平気か、の二択のうち飯を食わないほうを選んだ連中です。
ただでこんな労働をかってでるはずがありません。こんな暇つぶしにも似た行為を率先して行っていること自体が非常に異例、異常な事態と取ってかまわないでしょう。
このようなありえない事態、通常考えられない行動。これを肯定する背景はなんでしょうか?
核戦争です。
核戦争の後に太陽の光で体内で合成されるビタミンD。それを主な栄養源として生きる老人たち。すなわち新人類が席巻する世の中。
そこへ当たり前のように流れてくる巨大な桃!
放射能とそれに耐え新たな進化を遂げた微生物とその他の生命があふれる川べりがいかなる色彩を呈しているのか僕には想像も及びませんが、それは確実におばあさんの目前に姿を現すのです。
当然、いかなる自然も過去の姿を失ったであろう世界で旧世界の遺物を流れるに任せ失うようなへまをおばあさんはしません。
なぜなら、このような変化を見落とせばそれは即、命を落とすようなそんな危険な環境に身を置いてきたからです。
危険がないならば、それは利用可能な暮らしの糧。そんな気持ちが食料を不要とする二人のなかにあったのかもしれません。
もちろん、人体で合成されるビタミンDがそのまま活動に用いられるカロリーになるわけではありませんし、芝刈りや洗濯に赴く二人の体が何かしらの蛋白源を得ていたとしても、不思議はありません。
しかし、巨大な桃を運ぶのは容易ではありません。大体がおばあさんです。生命の坂を既に下り始めそれも終焉に近づいたのがおばあさんです。
いかに老齢であれど、整備の行き届いてない河川の近くに居を構えれば危険であるのは確かです。アウトドアの本にそう書いてありましたし、まぁ他に根拠はありませんがとにかく危険ですから。
幾日もかけて住居へたどり着いたことでしょう。苦難があったことでしょう。照る日もあれば風雨に晒される日もあったでしょう。
そしておじいさんに巨大な桃を見せます。
おじいさんも流石この過酷極まりない生活にその身を置いていただけあって、慎重に事を進めるに違いありません。
これはいったい何の果実だろうか。外見は桃ではあるが、収斂進化(違う種でも環境が似ていれば外見や機能が同じ形になることです)した一種かも知れぬ。
毒があるやもわからぬぞ、その思いと裏腹でしょうか。おじいさんはその桃に似た巨大な果実に包丁の刃を入れます。
そして桃太郎が生まれます。桃の中から元気な赤ん坊がわんわん泣きながらあらわれるのです。
これはどういうことでしょう。泣いた、ということはそれまでは泣いていなかったし、手足をバタつかせたりはしなかった、ということになります。
すなわち、桃の密閉が破られた瞬間こそ今ここにいる我々における出生のプロセスを模倣している(もしくは違う形の出生である)といえないでしょうか?
飛躍した論理ではありますが、これはある種の卵胎生であるといえます。
体内で果実様の胎盤を形成した母体が、甘く栄養価に富んだ果肉に胎児を包み河川に産み落とす(あるいは産み落とした果実に精虫を放つのかもしれません)
やがて浅瀬に乗り上げたそれのなかで十分に育った桃太郎の幼生が産声を上げる。
十分に育った桃太郎は生まれついた本能で上流をめざし(多分六月ごろではないでしょうか)そして、運良く異性に出会った桃太郎が再び子孫を残す。
完璧なシステムです。ただ斯様な栄養に富んだ果肉に覆われていると外敵に襲われる危険は増すことでしょう。
そこでとった形態が旧世界の桃であるというのはある種、中華思想的ではあるかもしれませんが”知恵のある物が手にする実”というモチーフを蹴倒しているのかもしれません。
実に奇遇なことにその実を受け取った最も有名な二人こそがかつて地球上で知恵の実を食したとされる生き物の末裔なのですから。
どっとわらい
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