今日の読書記・其ノ一 ー リルケ・小林秀雄・ヘルダーリン・西山あまね・松尾芭蕉 ー
服部 剛
皆さんこんにちは。昨日は少々仕事にくたびれて?僕は相も変わらず街をふらふらしつつ、先ほど自宅に帰って来ました。窓の外では蝉がじいじい鳴いており、僕の背後で首を振る扇風機が、風を送ってくれています。先ほど家に帰る前、近所のガストで朝食を摂りつつ読書をしていたのですが、本を読む独りの時ほど、かけがえのない時間はないと思います。もっと鼻の下の伸びるような時間も?あればいいとも思いますが、まぁ・・・それはともかくとして・・・今後は時々気まぐれに「今日の読書記」を綴りたいと思います。
その理由の一つは、読んだ本の内容とメッセージをその場だけのものとせず、自分の胸に収めるために、もう一つは、僕のページに来てくださる皆さんとその本が語りかけている密かなメッセージをそっとあなたに語りかけるような気持で、記していけたらと思います。
・・・・・
リルケ「ドゥイノの悲歌」(第一の悲歌)
実は先ほど家に帰ってすぐ、心の赴くままに受話器を手に取り、僕が敬愛する作家の奥様に残暑見舞いの電話をして、今日の読書のひと時について、「先生の本以外の本を読んでいる時も、今は世を去った先生のまなざしを感じます」と電話で伝えたのですが、その奥様があるエッセイの中で、在りし日の先生が奥様に「芸術家というのは、誰もがさわれぬ炎に手を伸ばす者だ・・・」と語っていたのを、このリルケの第一の悲歌を読んで思い出しました。
何かを求めるように切迫した心情で、詩人・リルケは「天使と美」を結びつけて語っています。この詩の訳と註解をした手塚富雄氏は、
(詩人とは、習俗の皮を剥いだ高次の現実性を熱烈に求めている人であり、それが彼にとっては真の美であり、隔絶した天(神)と地上の両方を結ぶ存在として実現する(天使の世界)なのである)と語っています。
小林秀雄「Xへの手紙・私小説論」より「様々なる意匠」
この文は、小林秀雄が二十七歳の時(昭和四年)に書いた、文壇登場作になるもので、批評家として最初の、揺るぎない立場を確立し、後の文学活動のあらゆる萌芽を含む内容であり、小林秀雄の根本的に変わらない初心の本音が語られているのを感じます。
(真の批評とは、書き手の嗜好と世の尺度のどちらをも無視せずに、その詩人や芸術家の宿命・個性や作品の魅力を浮き彫りにしながらも、批評家自身の独白ともなっているものである。)というメッセージが伝わりました。
ヘルダーリン詩集より「人生の半ば」
嘗(かつ)て「貧しい時代に詩人とは・・・」と問うた孤高の詩人・ヘルダーリンも、僕が敬愛する詩人の一人です。真実を求める詩人の精神の彷徨を感じる詩で、(悲しいかな 時は冬 どこに花を探そう 陽の光を 地に落ちる影を? 壁は無言のまま 寒々と立ち 風の中に 風見はからからと鳴る。)、独りの詩人が虚しさを抱いて立ち尽くしている情景が見えるようです。ヘルダーリンの本当に優れた詩は、このように彷徨う精神の中で時折全ての感覚が開いて「神の国の情景」が垣間見える瞬間が描かれた詩で、そこに詩人の使命が遠い過去から今も語られているような感覚になり、僕も職場へと歩いてゆく朝等、文庫本の詩集を手に開いて、そんなヘルダーリンからの声を聴いて、胸に収めながら、日々を歩んでいます。
西山あまね詩集「宵待ち歌」より「空の上から」
東京ポエケットで、僕が前から楽しみにしていた手作りの詩集を手に入れました。藍色の表紙の上と下の端は、三日月と星の形に切り抜かれています。現在半分と少し読んだところですが、とてもいい詩集で、中には本当に素晴らしい詩が載っていて読みながら僕は「もし、この詩人が遠い昔の時代を生きて、古書街で彼の詩集を偶然みつけて読んだら、僕は彼を、心から敬愛する詩人の一人として、胸に納めるだろう・・・」と心の中で呟くような、本当に優れた詩人だと思います。
詩集の中で、特に優れたものは別の機会に語りたいと思いますが、今日読んだ「空の上から」という詩は、(空の上から垂れている、救済の糸を、求めている青く冷えた手)が、額縁に納まった一枚の絵として見えるようです。世の中の(赤黒い喧騒はいやだ いやだ)という彼の歩く足元に(水溜りには 細い空のコピー かなしいほどの藍色だ)というふとした瞬間の情景の切り取り方がとても印象に残り、(せめて空を見上げることだけは 僕からけして うばわないでください)という詩の最後の言葉から、この純粋そのものの魂を持つ詩人の切実な願いが伝わって来ます。
松尾芭蕉「おくのほそ道」
先々月辺りから、ゆっくりと芭蕉さんと歩むような気持で、日々この古(いにしえ)の本を開いていますが、芭蕉さんの旅も中盤も過ぎ・・・東北の地を歩いている芭蕉さんは、歌枕の最上川で船に乗ろうと、天候の良い日を待っていると、地元の人が(私達も俳句の素晴らしさを感じて集まっているのですが、近頃は、新しい句風がよいのか、古い句風が正しいのか、わからずに迷っているしだいです。それも適当な指導者がいないからなのです。ついては・・・)と頼まれた芭蕉さんは、旅先で出逢った詩心を愛する人々とひと時を共有して、松尾芭蕉のこころの種を人々の胸に蒔いてから、その地を去ってゆく・・・という詩人(うたびと)の生き方そのものを感じる場面を想像しながら、僕は「おくのほそ道」の本をそっと閉じて、読書のひと時を終えました。