戦争を捉える方法
−奥主 榮詩集『日本はいま戦争をしている』−
戦争を詩の題材にすることは難しい。昨年秋の神戸の現代詩ゼミでも、瀬尾
育生が以前に佐々木幹郎から「なんで戦争詩になんか行っちゃったの」と言わ
れた、とコメントしていた。
私も難しさを感じる。体験の無いところを想像力で補おうとしても、いつの
間にか紋切り型の正義を読者に押しつけてしまう危うさがあるし、体験があっ
たらあったでツェランのようにそれを読者と共有できない危機に直面したりも
する。
先日、日本の漫画家たちが中国で戦争漫画展をやったというニュースがあっ
た。自分たちの悲劇的戦争体験を描いた部分に関して、会場に来た老婆が「自
業自得だ」とにべもなしだったのが印象的だった。
加害者でもあった日本の民衆の立場は難しい。この詩集の詩『パッション』
にもあるように、受難はそれを受けたものにとって「ただ一度だけのことが/
幾度となく心を苛み/蝕んでいく」ものであって、後からどれほどの償いをし
ようと「無かったこと」にはできない。むしろ続く悲劇を防ぐために記憶に留
められるべきものとされるのだが、その体験が特異なもの、共有困難なものと
見られがちなために忘却されたり歪曲されたりする。歴史的・政治的背景があ
ればなおのことで、この詩集で主題となった15年戦争こと日中戦争については、
正確な事実が民衆に十分に追求され認識されないまま終了から64年以上が経過
してしまったように、私には思われる。
この厄介な題材を、奥主が自分の第一詩集のテーマに選んだと知った時には
私はいささかの危惧を感じた。このテーマは詩人にとっての踏み絵で、少しで
も不審なところがあれば右からも左からも批判される。結果第一詩集をもって
詩人生命の終わり、にもなりかねなかった。
結果としてそれは杞憂だった。むしろ主題の厄介さゆえに、決して無視でき
ない詩集として現代に吃立している。父親が旧陸軍の士官だった彼にはこれを
書くことは宿命だったのかもしれないが。
成功の最大の要因は、民衆の視点からの事実に基づいた歴史認識を追求する
立場を彼が固守できたことと、社会の奔流からどこまでも切り崩されてしまう
(それゆえに加害者にも御都合主義にもなる)個人の弱さに立脚して描いたこ
とにあるだろう。
一作をとり上げることで、この詩集の魅力を紹介することは実は難しい。そ
れぞれの詩がそれぞれの役割を背負っているためだ。例えば序盤の『こまねず
み』は、この位置に置かれたことでこの詩の背景に個人の閉塞感があったこと
が強く意識されたりする。この詩集には大きく分けて歴史を軽快に風刺したも
の、戦中・戦後を生きた人それぞれの立場から錯誤として書かれた賛戦詩、そ
して客観的に時代を描写した詩の3種類の詩が混在している。
詩は何を描いたか、主題に何を選んだか、だけで評価されてはならないと私
は思う。どのように描いたか、その巧拙はアートとして必ず問われるものだ。
だが同時に、どれほど巧みに描かれた作品であっても、同時代に対する意識や
責任が全く欠如した作品に対しては、単なる言葉の綾だとしか感じられない時
もある。その両方を満たして緊張した完成度を得ることこそが、拘りを持って
作品を描こうとする者の課題なのだと私は考える。
その両方を得た詩のひとつを、現代詩フォーラムでも読むことができる。以
下にそれを引用しよう。フォーラム掲載時に比べ、細部にさらに変更が加えら
れているので、詩集での状態と対比してみるのも興味深い。
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=139763
夜のむこうがわから
闇に塗り込められた夜を透かし姿をあらわしたのは
輪郭を彩るおだやかな光ではなく
脂を浮かべた水たまりのようなよどんだ原色の
目を背けたくなる輝きであった
かつて街や家々の間を通り抜けた風のうるおいが
また戻る日が訪れるのを待ち 耐え生きのびた忍従の夜と昼とは
その重さをいささかも緩めることはなく
まだじわじわと人々の喉を締めあげる
不図漏らす言葉の一つひとつに目を光らせながら
ラジオから流れる音楽 走りまわるジープ
陽気に浮かれた景色の中で そのうしろにかくされた
むざんなものは姿を変えただけで揺るがない
青天井の下を寒風が吹き過ぎる 一升瓶の中を棒で突き
瓦礫の下から拾い集めた履物の山を紐で括り
ひびわれた手で隙間風をふうじこめ まじないを唱え
草臥れて力なくたおれ伏す 舗道の上には
廃兵達の義足の音が蟻の歩みで重なり合い
かつぎだされなかったみこしをかかげようと無力な
シュプレヒコールがぽつりぽつりと声にされ
呼び戻しかけた命令を猶もここにとどめようとするかのように
固着された記憶にしたがって語られるほどに
人々はうなだれ肩をおとしていたわけではない
砕けた瓦を踏みしだき前へ前へと差し出される
口の開いた鞄の中に鰊の匂いが滲もうと卑屈にならず
襤褸をまとった体からも歌は唇を押し開き溢れ出す 突き出した
親指のふくらみにむしろ滑稽さすらおぼえ
だから弾けるように笑みこぼれ
それほどにたくましく明るく人はまだふるまえるのだから
あおく たかく すきっぱらにひびくように広がるそら
どこまでも遠くへと弧を描き投げ上げるいのちのたぎり
列車の座席を引き剥いだ布を手に持ち
刻印を不吉な徴のようにあらわした足台を抱え そこに糧を頼る
足音高く歩く大男は身をそりかえらせて
新時代の軍票を大鉈のようにふるう鉄骨だけのビルの下
排水路は大空へ跨線橋は壕をこえ八十八の重なりがかつては
手に掲げられた旗に彩られた広場へ雪崩れこむ五月の神話への序曲
たちこめているのはなまぐさくかんばしき血の香り
それは遠い昔に回転の向きを切り換えた歯車の軋み
あらゆるちかいを投げやったそれらを
思いもよらぬこととしてかつて焦土に辿りついた人々は
ぽっかりと抜け落ちた空白の中 ただ生き延びたことを喜び
あかるくあどけなく笑いを浮かべている
大地という名の母の胸に抱かれることに安心しきり涎までこぼし
(旧題名『闇に塗り込められた夜を透かし姿をあらわしたのは』)
つたない解題は控えさせて頂くが、終戦直後の都市の描写であることは相違
ない。第1連に「むざんなものは姿を変えただけで揺るがない」とあるように、
戦争が終わっても大衆の苦しみは変わらない。その中にも立ち直ろうとする力
は息づいている。
そこまでなら誰でも描くだろう。だがこの詩はこの苦しみの忘却と、次への
苦しみを予感させて結ばれている。「たちこめているのはなまぐさくかんばし
き血の香り」を知る人たちが「あかるくあどけなく笑いを浮かべている」とは
一体どういうことか。
こうした複雑さ困難さに対して、逃げずに取り組んで描き切った事がこの詩
集の成果に結びついたと私は思う。
岸田将幸は前出のゼミで「日本は、ゆるやかな戦争をしている」といったこ
とを語っていた。日本の経済活動が、世界の末端の人たちにとっては戦争にひ
としい猛威であることを思えば、日本のふるまいというものにはよほどの熟慮
を払わなければならないと私は思う。
キナ臭さのつのるこの時代にありながら、戦争体験は私にも、ない。その軽
薄さに耐えて、私もまた戦後の詩を描かなければならない。そんな時代にあっ
て、このような詩集を作る意志に巡り合えた事を、私は幸せに思う。
2009/9/6 大村浩一