詩と詩論(3)
生田 稔
詩と詩論(3)
また詩について書こうと思う。昨日妻と妻の友人の女性と3人で会食をした。料理に舌鼓を打った後、我が家に立ち寄ってもらってお茶を飲んでもらった。その時の会話にふと私は落胆を覚えた。妻の友人は言う、「世界は悪魔的になってゆくのではないかと思う」この発言を聞くのは初めてではない。私たちは聖書を学んでいる。世界には700万人の志を同じくする仲間がいる。ハルマゲドンという言葉が私たちの、教会の機関誌にたびたび登場する。世界滅亡を表す大戦争のあるいは大艱難が来ることに関連があると教会は言う。
その理由は沢山聖書から裏付けてあるのだけれども、私が調べた聖書の内容にはハルマゲドンとは信仰の戦いを意味する。なぜかは聖書全巻から説かねばならないので、別の稿に譲ることにする。
このことは詩論とどんな関係にあるのだろう。全く関係がないとは言えない。悪魔的になってゆくともいわれる人の性格人格に詩によって戦おうというのである。詩という柔によって、悪魔という剛に向かうのである。
悪魔とは何か、それは人に関しては心の中に潜む悪の本質である。悪魔という個性を持つ存在がその悪の本質の主人公であったのは、もう終わった。善神悪神の対立は久しい昔に終わった。今の世界は全能の神エホバの親政による世界支配がおこなわれている。聖書全巻から説かねばと言いながら、また私は聖書に関連したことを書こうとしている。
会食をした妻の友人の言葉を聞く少し前から明日は詩論を書こうと張り切って食事中も頭の中は詩について回り巡っていた。
自動車が
まっすぐに
道を走る
蝙蝠が
空を駆ける
夕空
妻と
その友
3人で食事
と他愛ない詩を作った。時間の区切りをそっと拾い上げただけの詩である。ありのままのことを、さらさらと書くと詩になる。だから、私はいっも詩を作っている。ある時は短歌、俳句も、これらのものに区別はないと思う。時折詩に行き詰まることがある、そうすると短歌を、そして俳句を。これらはみな詩の一種である。年も70を超えたから、そんな幅が出来るようになったのではないか。詩を書くことは楽しい。短歌や俳句は苦吟の傾向があるが、詩特に自由詩は楽しい。文学には何物もとらわれぬ自由性こそ大切なものではなかろうか。私の観察では一年間、詩でも絵でもよい存分にやれば一応の成果を得ることができる。詩も絵も一年が目途である。一年には四季が日本ではある,寒帯や熱帯でもそれなりの四季があるそうである。一年脇目も振らず、一つことに専念しなさい。そうすればかなりな目標に達するのではなかろうか。とにかく。すぐ良い詩を書けるとは思わぬことである。書こうと思っても都合よく書けるものではない。哲学は学ぶことによって解るかなどということを、昔読んだ本には云々されていたが。学んで判らぬものは永遠に判らぬものである、女心は判らぬなどという人もあるが、女もわかっていなくて、女もあるパターンに従って自分を表出しそれに満足しているにすぎないというのが私の人生から得た悟りのようなものである。
詩にもいろんなパタ-ンがあり、自分の本能にあうパタ-ンを詩人たちは選ぶのである。それは好みというものであり、万人向きの好みというものもありうる。しかし万人向きは万人向きで矛盾を抱え込んでおり、あまりにも普遍的なものは存在を絶たれることもありうる。
この文を読む人はこの文から何らかの影響をうけるであろう、ただ詩を書くことによって幸福になってほしい。私はそう願うだけだ。私の書くものは時間つぶしにすぎない、そうとも言える、だが私にも使命感がある。詩を書くということに人生の多くをかけたものとして、夢を後輩に託するということには意義があるのではないか。
詩というものは万物の基本である。創造者は詩心を持ってすべてを創ったと私は思う。創造者の特質は自分にとって好ましいものを作ったのであろう。しかしそれだけですべてではない、おそらくは自分にとっては、反抜する精神も存在せしめたに違いない。イエスにとって、裏切ったユダは、自分に優しいものでなかっても、予言されていて是非とも必要なな一部であったであろう。
私たちはユダをそしてサタンを、これらこそ理解すべきものであり追求すべき中心である。いい加減に、悪い者だから当然だという簡単な結論ですませるものではない。
自分の嵌ってきた単純な殻から抜け出せ。それこそ自由になる道である。和解があるとすればそこにしかない。
終わりに詩を書こうではないか。詩こそすべての悟りに達する道である。なぜならば人間が最も優れている、言語中枢をフルに用い、しかも自由であるからだ。詩を読み、詩を書く人は幸福になり悟りを得るにちがいない。私はそう願う・・・、