ある戦争体験者と話をしながら
北村 守通
「隊では一、二を争いました。」
射撃の腕を買われ、十一年式軽機関銃の射手に選ばれたというその人は、嬉しそうに話していた。日本の銃器類は思っているよりも評判は良い。その人は「十一年式は三発ずつしか撃てない」と、愚痴をこぼしていたが、現在この連射方式は『三点バースト射撃』と呼ばれ、もっとも効率の良い射撃方法として多くの銃器に取り入れられている。日本の技術は早過ぎたのかもしれない。
かくして、世に誇るべき一品一品が生み出されていくわけなのであるが、それらはあくまで点であって決して線として繋がることはなかった。いや、正確には複数の線の存在を一つの面にまとめることができなかったのかもしれない。
日本は資源が少ない国であったから、弾幕を張る、ということよりも一発における命中率を高めることに重きを置いていたように思える。その究極の形ともいえるのが『特攻機』である。基本的に弾とは発射したあとは制御できない。しかし、その発射後の制御が可能となれば、一撃必中のはずであった。考え方そのものは今の誘導式のミサイル等となんら変わりはない。ただ、その制御方法はやはり人力に頼らざるを得なかった。
各地で決して消えることのない自爆テロも結局はより確実に目標に打撃を与えるための最も効果的な誘導方法なのだろう。少ない戦力を有効に用いるには、なるほど原始的且つ、単純であるけれども理にかなっている。それを用いるしかない、というその一線まで追い込まれている、という事情もあるのだろう。それが何から来るものなのかは私は知る術を持たないし、知りえたところで何かをするというわけでもない。
奪い去ることはたやすい。多少、良心と呼ばれるものとのいざこざは発声するかもしれないが、それに抵抗するに充分な快楽というか魔力の様な魅力が秘められている。私達が生きる、とは当たり前であるが、基本的に他の生命を奪うことから成立してきており、他者を奪うということの快楽性はそこから端を発しているのかもしれない。特に、直接生命活動を断ち処理する過程を経ると(例えばそれは菜園から収穫したり、川虫を獲って食したり、魚を釣り捌いたりといった)それを思わずにはいられない。「食える」という喜びは確かに存在しているのだが、それとは別の喜びの存在も感じずにはいられないのである。
勿論、その対象物がどれだけ自分自身に近いか?という点も無視できない。基本的に同族に手をかける、というのはおいそれとできることではない。(それでも自然界には『共食い』という自体も起こりえるのだが)よほど充分な引き金が必要となる。また、物理的な問題もある。相手を直接刺すと、その肉質が金属を介して伝わってくる。けれども、ある程度の距離をとって、銃撃によって相手をしとめる場合、相手の肉質はこちらに伝わってくることはない。むしろ、まったく突然、自分自身のまわりの空間が裂かれ、それがじりじりと自分に向けてせばめられていくことの恐怖のほうが強いだろう。あるいは遠くのそれを打ち抜くことはゲームにおいて生き残り、破壊し終わったあとの充実感に近いものがあるのかもしれない。
それは鹿や熊を撃つことよりも簡単なことであり、尚且つ、食うためのものを撃つ場合と違って獲物を解体するといったわずらわしさからも無縁のことである。
戦場での武勇伝を語るとき、彼の顔はとても輝いていた。
しかし、銃を用いず、という話になったとき、彼の顔はとたんに曇った。
本質的に同じ行為のはずなのに、であった。
私はそれ以上彼に戦場のことを聞くのはやめることにした。