鰻の行方
亜樹
アマゴのこと それは遠い夏の日の話である。
それが正確にいつのことなのか、もはや敬三には思い出せない。その程度には昔の話だった。
ただそれが夏の日だと確信できるのは、あの日の太陽がぎらぎらと輝いていたからというだけの理由に過ぎない。
もしかしたらそれは残暑厳しい秋の話だったのかも知れない。ただ一つ確かなのは、六月七日よりも後のことだということだけだ。毎年、敬三の家では七夕の一ヶ月前に井戸の掃除をする。それよりは後の話だった。
その日、敬三は川で遊んでいた。照りつける日とは切り離されたように川の水が冷たく、始終動き回っていなければそのまま凍り付いてしまいそうだった。それでも学校の古びたプールで、生ぬるい塩素の溶けた水をかぶるよりどれほどましかわからない。ここいらの部落で、十より年かさの男児は、だれもわざわざプールなんかにいかない。学校は川遊びを禁止にはしていなかったが、それでも一応『一人では遊ばない』という注意事項は、休み前に配られるプリントに記入してあった。そのため、子どもたちは集団で遊ぶ。川べりをさすらい、時に岩から飛びおり、また明日遊ぶからとそこいらの木に水着を干して帰る――その様はさながら川童のようであった。
そのうちの一人が、その日、魚を取ろうと言い出した。川童たちは賛同した。それまではしゃいでいたところから少し川上に移動すると、12時の町役場のサイレンがなるまでを時間制限と定めた。誰かが発した号令を合図に、川童たちはめいめいそっと石の下に手を突っ込んだり、小石を積んで覆いをし、そこに魚の群れを追い込んだりした。
敬三は、木陰の大きな岩に目をつけた。川の石は、水の流れで下のほうが削られて、そこがちょうどいい魚の寝床となっている。
できるだけ波を立てないように岩まで近づくと、何の躊躇もなく敬三は手を突っ込んだ。
とたん、ぬるりとした細長いものが指に触れる。
「鰻だ!」
思わず、敬三は叫んだ。その声を聞いて、他の川童たちの動きが止まる。嘘だろなどといいながら、敬三の周りに寄ってくる。もしそれが本当に鰻で、そして敬三がとり損ねたときに、囲い込んで自分の獲物とするために。
しかし、その日の敬三は運が良かった。適当に入れた手は鰻の鰭の下あたり――丁度鰻の首根っこを掴んでいた。
どうにか逃げようともがくそれを水の上からあげると、友人たちは歓声を上げた。
姿を見てみれば、それは大して大きくはなかったが、それでも鰻は鰻だ。鯰やひらめ*1などとは格が違う。一躍敬三はヒーローとなった。丁度ウーウーと、町内にいれば何処からでも聞こえる低くうなるようなサイレンがなって、その日はいったんお開きとなった。家が近い子が、たらいを持ってきてくれた。それに鰻を入れて敬三は帰った。
しかし、家についてみれば、鰻の処置に困った。何分、小さい。食べようにもあまりに小さい。さばいて蒲焼にしたところで、一人前取れるかどうかだ。かと行って重たいたらいを担いで帰ったのに、川に返すのも業腹だ。
どうしたものかと頭を悩ます敬三の視界の端に、井戸が映った。
件の、六月七日に掃除をする井戸である。今はもう葉しかついていない紫陽花にかこまれたそれは、敬三の祖父が生まれる前からあったらしい。苔むしたそれには、トタンの蓋がついている。大して重くもない。敬三の家の洗濯と食事には、この井戸の水を使っている。電気のモーターでくみ上げて、何度かろ過して、蛇口を開くと普通に井戸の水が出てくるようになっている。保健所にも飲料に適した水と認められた、時々砂利が混じる以外は、概ね問題ない水である。
――そうだ。
思うが早いか、敬三は薄っぺらいトタンの蓋をどけ、たらいに入った水ごと鰻を井戸の中へと落とした。
――飼えば、いいんだ。
来年の六月七日には、きっと随分大きくなっていることだろう。
――そうしたら、おとうさんに捌いてもらって皆で食べよう。
井戸に再び蓋をしたとき、母の呼ぶ声を聞いて、急いで敬三は家の中へと入った。
それから敬三は来年の六月七日を心待ちにした。カレンダーには印をつけた。井戸の中では食べるものも無いだろうと、家人の目を盗んでは蛙やミミズ、時には台所からこっそり頂だいした麩なんかを井戸へと放った。
そうして、その日が来た。
水田へと水を引かれた井戸は、いつもよりも水位が下がる。その隙に、壁についた苔や水面に浮かぶ落ち葉掃除するのだ。
井戸の中に降りるのは、父親の役目だった。敬三を縄梯子がずれないように持ったり、父親が取り出したごみを畑まで持っていったりと、せわしなく働いた。
「お父さん」
しかし、それでも鰻のことは忘れられなかった。
「何だ?」
井戸からひょっこりと顔を出した父親に、きらきらと目を輝かせながら言う。
「鰻、おらんかった?」
しかし、父の返事は、敬三が期待していたものではなかった。
「おらんよ」
「嘘!?」
「嘘じゃないっちゃ。なんなら見てみるか?」
ちょいちょいと父は手招きをした。
「ええん?」
「ええよ。落ちんようにな」
おとうさんッ、と咎めるように母が父を呼んだが、まあええじゃろと父は意に介さない。敬三はといえば、そんな両親の様子を気にとめることもなく、ゆっくりとはしごを降りた。
吊るされた懐中電灯のおかげで、それほど暗くもない。外界の湿っぽい暑さは、微塵も感じられない。遠足で行った鍾乳洞の中のような、静謐な冷たさがそこにあった。
ぴちゃり、と右足が水面に届く。水は灯りに照らされながら、どこか黒く光っていた。その中に、生命の動きは少しも感じられなかった。鰻は愚か、蛙も、ミミズも、何もかもが黒い水の中に溶けてしまっていた。次第に眼が慣れてくると、その黒い水面に映る自分の顔が見える。それもまた、ゆっくりと水に溶けていくような気がする。怖ろしくなった敬三は、急いではしごを上ると、急いで外へと逃げた。
むあっとした重たい空気をおもいっきり吸う敬三を、父親はけらけらと笑った。
「おらんかったじゃろ」
「うん……」
短く答えながら、敬三は井戸をとりかこむ紫陽花が、いつになく赤いのにようやく気がついた。
*1 アマゴのこと