孤独
山崎 風雅
人が生きると言うことは、生命を維持し、その上での行動、選択の連続した作業をすることだ。
その過程で様様な精神的経験、超個人的経験と経て、その後の行動規範を作っていく。
文化や社会、周りの環境、自己の能力、成長の度合い、健康状態、精神状態、性格、などありとあらゆる要素によって、その時のその個人の感性は多様である。
生きると言うことは、基本である生命を維持することに問題のない環境にあるならば、社会的規範、文化、他者との関わりでの、人間の理性的な精神活動が工夫、努力、向上心、などによって、より良く生きようと言う方向に向くことが自然である。
人は歴史の中で、様様な文化を残してきた。そして、幸せについても時の人々の関心にならないことはなかっただろうと思う。
精神活動は幸せを望む人間の本能かもしれない。
何をもって、幸せとするかも、人それぞれ、地域文化、男女、世代、時代によって、多種多様にあるだろう。
個人的、民族的な精神経験からこうありたい、こうはありたくないと強い意思を持ち続ける人、民族もあるだろう。
現代、多種多様な文化、思想、精神的経験を我々は享受出来る。
その関わり方はそれこそ、万人いれば、万人によって、様様なはずだ。
そこで、幸せに対する捕らえ方が、以前までの限られた刺激の中で暮らしてきた先人と比べて、明確に違う人々がすぐ隣にいて、そこで一緒に暮らしていると言う、これまでに人類が経験したことのない事態が起こっている。
快適に愛情に恵まれて暮らして、この世に感謝と畏敬を持ちながらな暮らしをしている家族の隣には、精神を病んで愛情にも身体的健康にも恵まれず、この世に恨みと憎しみと絶望を持ちながら暮らしている人がいるのに接点はないと言うことが、多くの場所で普通にあるんじゃないだろうか。
そして、その人達は同じ社会で、顔を合わせても、まるで異星人同士の出会いのように共通の言語がない。
孤立していく個人は、幸せについてのそれぞれの理想はあっても、淋しいと言う、精神的な足場である安心感と離れた不幸せを背負って生きていると言う状況に陥ってしまう。
手軽に簡単に享受出来る多様な文化は、その代償に精神活動を活発にするために不可欠な精神的安心感を犠牲にしてしまい、より良く生きると言う人間に備わった基本的精神活動に向かう活力を削いでいる。
幸せになりたいと切望しながら、テレビや雑誌、本、インターネット等で模索、あるいは、娯楽、仕事、金、放蕩等で紛らわせば、紛らわせるするほど、幸せと遠ざかり、飢え感を埋めるためにする行動はさらに飢え感を助長させる。
哀れ。