身体の海【3/6】ガチャン。痛い自愛、
A道化
つまり、救済。
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ピアッシングは自分を救う為の行為だ。この点では、リストカットと似ているような気もする。(リストカットは、そのときその人にとってはそうしなければ自分を実感できない・維持できない・生きていけない、だから切る、つまり、実感したい・維持したい・生きたいというパワーの表れではないか、と思っている。) けれどもちろん、その救済は一時凌ぎでしかない、
うん、似ている。けれども、決定的に違うのは、上に書いたように、結果だ。
自分を救う為に自らを傷付ける、その結果それが自分を飾るものになるか、または悲しい傷跡になるか。自傷の形を取りながら、ピアッシングは自愛の為の自愛行為であって、リストカットは自愛の為ではあるが結局のところ自虐行為、
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けれど、自愛の為の自愛行為なら―自分を愛しているがゆえに、救いたいがゆえに、心身を一括して愛でる行為なら、もっと自愛率の高い行為が他にもあるのではない?
例えばアイスクリーム。例えば星を見る、花の香りを嗅ぐ、美しい音楽を聴く、だとか。美味しいものを食べること、うつくしいものを見ること嗅ぐこと聴くことは最初から最後まで完全に自分を愛でる行為じゃないか、、
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けれど。私はある夜を思い出してみる。とある喪失の予感の為に苦しくて悲しくて堪らなかった夜、それは9つ目のピアスを空けた夜だ。もしもその夜、目の前にピアッサーとアイスクリームが用意されていたとしたら、迷わずピアッサーを手に取っただろう。アイスクリームでは、駄目なのだ。もしもアイスクリームだけが目の前にあったとしても、手を出す気にもなれなかっただろう。もしも、もしも、食べたとしても、苦痛が和らぐことはなかっただろう。あの夜、私にとって、アイスクリームや星や花の香りや音楽なんて、何の意味もなかった、…と言うよりは、存在していないも同然だった。
ただ、私がいた。
ただ、痛い心があった。ただ、体があった。それしかなかった。
そして、何故かしら、どうしても、体に、痛みが必要だった。
ピアッサーが、あった。その数日前に私はちゃんと用意していた。
私は明らかに痛みを必要として、体への痛みを求めて抽斗をまさぐりパッケージを破り剥き出されたピアッサーを耳に宛がったのだ、そして、
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ガチャン。