健康について(1)
生田 稔
健康について(1)
健康は望ましいものであるに違いない。多くの健康法を説く人は多い。健全なる精神は健全なる身体に宿る。誰が言った言葉か判らないが、本当である。ビタミン剤や酵素やさまざまな健康器具、皆々いちおうの役には立つが決定的なものはどれ一つない。それらの効果をよく確かめ、盲信しないで利用すればよい。そういうことはみんな判るのだが、導いてくれる相談相手がいない。それが現状である。
私はいくたびも病院に入院し、そしてある宗教に携わっているものだから、入院した病院で、その教えをたびたび説いた。しかし、再入院すると、以前教えを知らせた人は、あなたはまた入院したからあなたの宗教はだめだという。確かに微視的にみれば、その通りなのだが、もっと巨視的に人生というものは見なければいけない。教えを実践するには時間と労力が必要であることだ。
幾度もアタックして克ち得るものが健康である。言うまでもない人生は戦いである、熾烈な戦いである。父や母の教えは確かに貴重なもので、その戦いに勝っために両親の言うことをよく考えてみることだ。しかし両親がどのような成功をおさめたか。両親の盲点は何か、典型的な理想論は役立つか。理想は人にとって大切なものである。何か目標を立てそれが悪いものでないならば最善の努力を払うべきである。
しかし幸福や理想には敵がいる、努力をしないで当面の敵を倒すことによって、幸福や成功を得ようとする。戦争というもがそれである。しかしこの点も巨視的に考えよう、日本は太平洋戦争に無残な敗北をした。しかしその後アメリカのくれた平和憲法によって、いまや世界の一流国になっている、アメリカの汝の敵を愛せよという方針は日本に結実した。
健康とこのことがどういう関係にあるかは明らかであろう、倒れても果敢に戦った日本は成功した。しかしそれは微視的である、巨視的にはアメリカも日本も多くの問題を抱えている。世界は繁栄に向かっているのかあるいは滅びに向かっているのか。ある人々は滅びに向かっているという。聖典にはそうも書いてある。しかし聖典には平和な豊かな未来が述べられている。
もう滅びは信じても無駄だから明るい繁栄の未来に目を向けようではないか。滅びを人に知らせるより、滅びというようなことを人に教えると、その滅びを促進しようというような団体が出るかもしれない。全く危険である。甘い楽な救いは聖典には載せられてはいない。ビッグマネーやハイポストが健康や幸福を生むとは決して言えない。爆弾で相手を滅ぼすこともある程度にしなけば、きっとその跳ね返りが来ることは歴史が教えている。
第一次・第二次世界戦争は平和に向かうための解体作業ではなかったか。既存のアンシャンレジームが崩れて新しいものが続々と生まれた、日本にいる私は第二次世界大戦の勃発頃物心がついた世代である、戦争には私は参戦せず、戦争は終わり平和日本の幸福をこれまで享受してきた。今私はとっても健康である、病気にはなったが、17歳から自分の改革を志し、74歳の今、病気も克服し健全なる精神についてもいいちおうの段階に到達した。だからその健康と精神の豊かさにつき、これから説こうと思う。