幻人形
within
草叢に横たわっていると、朝の草露がわたしの頬に滴り落ち、がらんどうの身体は血も通ってないのにどくんどくんと脈を打っている。
「そんなところにいては寒いだろう」
と父さんがわたしを家に招き入れてくれた。温かいスープを出してくれたけれど飲んでも飲んでも中身のないわたしには温もりがわからず、ぽろりと涙のようなものが頬を伝った。
父さんは実の娘が着ていた洋服を着せてくれて、わたしは別に構わなかったのだが、父さんが裸ではいけないよというので袖を通した淡い水色のノースリーブのチュニックは、わたしの身体にぴったりで、わたしの青い目と溶け合って、父さんもよく似合っていると目尻を下げて喜んだ。
でも次の日、父さんは動かなくなった。わたしは、動かなくなった父さんをベッドに残したまま、裸足で家を出た。随分爽やかな朝で、ひんやりと冷えたアスファルトの上をてくてく歩いた。そのうち雨がぽつりぽつりと降り出し、誰も通らない道をひとり歩きながら白く濁った空を見上げると、空も動かなくなった父さんのことを悲しんでいるようで、次第に打ちつけるような強い雨に変わった。人の往来はなく、時折水しぶきを上げて通り過ぎる車があるだけで、雨に打たれるばかりで、灰色の湖沼に沈みこんでしまったようだった。
バス停の待合所で雨を避けていると、少年がわたしの横に現れ、ほら、これ、と白いハンカチを渡してくれた。ハンカチで、絵の具が溶けたようなずぶ濡れの顔を拭うと、幾分か周りの風景が見えてきた。
「ここから僕の家は近いんだ」
そう言って少年はわたしの手をとり、走り出そうとした。でもわたしがまごついていると、少年があんまり強く腕を引っ張るもんだから
「痛い」
と言ったがぽろりとわたしの腕がもげてしまった。
少年が、ああ、どうしよう、と蒼白な顔でおろおろするので、わたしが、気にしなくてもいいのよ、となだめ、
「貸して」
と少年からもげてしまった腕を受け取り、肩にはめようとしたのだが、外れてしまった具合がよくないらしく、うまく繋げることができなかった。わたしは少年に、よかったら、わたしのこの腕、差し上げるわ、と申し出た。いいの? と少年は問い返したが、いいのよ、でもそれはわたしなのだから大切にしてね、と微笑んだ。少年はまだ血の通っているらしきわたしの片腕を大事そうに抱え、雨の止んだ空を見上げ、
「晴れ間が出てくると、きっと虹が見られるよ」
と言ってまだ首の座らない赤子を抱くように大事そうにわたしの腕を抱え、小走りに去っていった。片腕を失ってもわたしは全く悲しくなかった。かえってこの方が身軽だった。いいのよ、これで、何か上空を旋回する鳶のような身軽さを得られたような清々しさに包まれていた。
次第に晴れ間が覗いてきた。わたしは今まで腕があったときよりもずっと思い通りに動く腕を手に入れたような気がしていた。
少年はまだ温かい腕で自分の頬を撫でつけ、きめの細かな少女の皮膚に心を奪われ、恍惚としていた。少女の指を解すようにひと指ひと指開いていき、自らの顔を埋めると、身体が少女の掌よりも熱くなるのを感じた。そのとき、人の声がし、少年は慌てて腕を抱きしめ、駆け出した、が、ばったり老婆に出会い
「おまいさん、何持っとるのや」
と皺に埋もれた濁った眼で睨まれた。
「うるさい、黙れ」
そう言って老婆の肩を突き飛ばすと、老婆は尻もちをつき、痛い、痛い、と大声でわめきだし、少年はただひたすら見えなくなるまで走った。
川のほとりまで辿り着くと腰を下ろし、少年は少女の腕を川の水に浸し、白い肌を清めるようにゆっくりとさすった。この腕を抱きしめているとこの腕の向こう側にいる少女の姿が思い返され、心の中にロウソクの灯火のような募る思いが現れるのを感じた。
片腕になったわたしは、母の働く漁港まで裸足のまま歩いていった。漁港に着くと、漁から帰ってきた船の傍らで、魚のはらわたを包丁で器用にえぐり取っている母さんがいた。女達は輪になって、黙々と作業をこなしていた。わたしが近付いても気付かない様子で、母さん、と声を掛けると顔だけこちらに向け、頭頂からつま先まで値踏みするように見、あんた、腕、どうしたん? と、しわがれた声で尋ねた。
「外れちゃったの。どうしてもくっつかないからあげちゃった」
「何を言ってるんだい。代わりはないんだよ。母さんは知らないよ」
「いいのよ、わたしが望んだことだから」
わたしは微笑んで応えた。それなのに母さんは口を曲げたままで、つまらないので港を離れ、岸に座り、生温い風に吹かれながらウミネコが空をくるくる舞い踊っているのを追いかけていた。そのとき、首が攣ったかと思うと、頭がぽとりと地面に落ちた。
「嗚呼、母さん、母さん」
と、わたしは大声で叫んだ。しかし叫ぼうが泣こうが誰も現れず、首のない身体と、熟れ過ぎた果実のように落ちてしまった頭が、誰に顧みられることもなく転がっていた。一ミリ一ミリと日が陰っていく中で、わたしはひとりでいることに慣れているはずなのに、淋しさに耐えられなくなり、滂沱の涙が垂れ落ちた。
誰にも見つけてもらえず夜が来て、冷たい潮風が吹きつけてきて随分不安な気持ちになったが、誰も来てくれない。こんなところに来た自分が愚かだった、と後悔した。何故わたしはこんなに脆いのだろう。皆、もうわたしのことなぞ忘れてしまったのだろう。「あんたは私の子じゃないんだよ」そんなことを言われたこともあった。だからわたしがいなくなっても気にも留めてないに違いない。でも慰めの玩具であるよりは、ずっとマシだった。
そのとき、暗闇の中から狼煙が立ち上るように光が現れ、こちらを照らした。
「こんなところにいたのかい」
「母さん! 」
わたしはできるなら抱きつきたかったが、頭の外れた身体では動こうにも動けなかった。
「父さんが死んだんだよ」と母さんが言った。
それはわかっていた。母さんはわたしの頭を首にのせようとしたが、うまくはまらず、もう面倒だね、と頭を傍に置き、身体から腕を引き千切り、足を引き千切り、胴体とまとめて黒い海へ投げ捨てた。手足、胴体は死んだ魚のようにぷかぷかと浮かんでいた。わたしは母の脇に抱えられ、これで十分だよ、と家路についた。手も足も胴体もなくなったがわたしは全然悲しくはなく、それよりも家で永遠の孤独の中で眠っている父さんのことが気がかりだった。
「母さん、本当に父さんは死んじゃったの? 」
「そうだよ」と母さんは表情を変えずに言った。
「母さんは悲しくないの? 」
「悲しくても涙が出るとは限らないだろう」
家に着くとわたしをテーブルの上に置き、動かなくなった父さんの前で跪き、手を合わせて何かに祈っていた。
しばらくすると母さんは立ち上がり、奥へ行ったかと思うと、シャベルを持って現れ、わたしを脇に抱え外に出た。
「元気だった父さんが死んで、頭だけのあんたが生きている。そんなのおかしいわ」
母さんはシャベルとわたしを抱えて小高い丘へと登った。その姿はライフル銃を持った兵士のようだった。
「可哀想だけどあんたとこれ以上暮らしていくのは無理なのさ」
と母さんは丘の上に着くとシャベルで穴を掘り始めた。無言で黙々と掘り続け、ちょうどわたしの頭ひとつが入りそうな大きさの穴ができた。そこにわたしを仰向けに収めた。
「いやよ、いや。ひとりにしないで」
しかし、わたしの訴えに耳を貸さず、母さんは黙って土中にわたしを埋めた。
そうして、夏が終わり秋が訪れ、冬に沈み、また春が昇る頃、わたしの内から青い欲望の芽が生え、殻を突き破り、或る晴れた日に土中より息吹を上げ、その芽は次第に大きくなり、茎が伸び葉を広げ、蕾をつけた。
わたしは少年を導いた。茎が地を這うように伸び繁り、花が咲き誇り、淡い桃色の花弁の中にわたしは顔を現し、その祝福の中に少年は訪れた。「わたしの腕を大切にしてくれていたのね」とわたしはにっこりと笑顔を湛え、目を開いた。
「この腕は君のものだから」
と少年は穴を掘って腕を埋めようとしたが
「いいえ、それはあなたのものよ。わたしの思ひ出だから、どうか大事に持っていて」
と言うと、少年は、わかった、とわたしの腕を自分の両の腕でしっかりと抱いた。
「ありがとう。わたしももうすぐ生まれる」
そう言うと少年もにこりと口角を上げて微笑み
「夏にまた来るよ、必ず」
と立ち去った。夏には酔芙蓉が花を咲かせることだろう。そしてわたしは実を結び、産声を上げる。