「名」馬列伝(6) メジロモンスニー
角田寿星

栗毛の大柄な馬体だった。
重戦車のような差し脚で、一完歩づつ確実に、最後の直線を追い込んでいった。
無骨で不器用な、愚直とも言える追い込みで、稀代のスターホース、ミスターシービーに戦いを挑んでいった。

彼のこの戦法は、一朝一夕で培われたものではない。
ある騎手の「脚決め」と俗に言われる、職人芸により確立されたものだった。
デビューから7戦(3勝)は、別の騎手が乗って、先行または中段からの差し。
もっとも使われていたのがダートの短距離、次いで芝1400だったので、仕方のないところではある。
騎手に乗り替わった初戦のシンザン記念は、後方からのまくりで勝った。
これが「脚決め」の第一歩だった。

脚決め。聞きなれない言葉だが、これは実戦で競馬をしながら、その馬に合った脚質、戦法を教え込んでいく、ジョッキーにしかできない一種の調教である。
清水英次騎手は、その道の名手で、関係者からの評価も高かった。厩務員から「英次さんが辛抱強く乗ってくれたので差しのスタイルが身についてきた」というコメントが紙面に載ったこともある。
きさらぎ賞、スプリングSと、後方一気の追い込みを叩き込まれ、彼の「脚決め」はクラシック本番直前に完成した。
そしてその末脚が、クラシックで炸裂する。

皐月賞。どろどろの不良馬場、直線で追い抜かれたミスターシービーを必死に追いかけた。
栗毛と黒鹿毛のコントラストが、泥に汚れて競り合う。半馬身及ばなかった。

ダービー。良馬場なら逆転も可能、と思われていた。堂々の2番人気だった。
向こう正面では後方ながら、ミスターシービーの前に位置取った。シービーは最後方に陣取り、3角で常識破りのまくりを打つ。後方一気の彼は動くことができない。
府中の長い直線。先頭に立ったシービーの影を捉えようと地鳴りを震わせ、スパートをかける。
1と3/4馬身差まで詰め寄るも届かず、2着。完敗だった。

菊花賞。長距離血統の彼にとって、菊花賞こそがミスターシービーを逆転できる、最大のチャンスだった。
シービーはスピード血統。末脚の鈍ったところを、ズドンと差す。そんな期待を抱かせるに充分な魅力が、当時の彼にはあった。
しかし。
菊花賞に彼はいなかった。
神戸新聞杯3着入線ののち、指骨骨折が判明。長い休養に入った。

いったん故障すると、大柄な馬体は不利に働く。体のあちこちが悲鳴をあげた。
1年に2〜3走するのが精一杯だった。
5歳の天皇賞(春)。ミスターシービーと2年ぶりの対戦。1歳下の「皇帝」シンボリルドルフの5着、9着にそれぞれ敗れる。
次走の高松宮杯では追い込み戦法を捨て、中段差しで鼻差競り落とし、久々の重賞勝ち。
かつての輝きは失われていたが、ぼろぼろの体での勝利を、誰もが讃えた。


昭和は過ぎ、平成の世になり、清水騎手もまた、かつての輝きは失われていたが、「脚決め」の技術は健在であった。
ラジオたんぱ杯3歳S(当時)、ナリタタイシン。2走前より乗り替わっていた清水は、先行で末脚を失っていたその馬を、まずは中段からの競馬を教え込み、そしてこのレースでは、最後方からのまくりと追い込みで、見事に低評価を覆した。
ナリタタイシンにとっては初重賞勝ち、清水にとっても久々の重賞勝ちであったが、これは何よりも、その馬の後方一気の「脚決め」が完成した瞬間であった。

ナリタタイシンは翌年、武豊に乗り替わり、後方一気の追い込みで皐月賞を勝つ。
実況アナは「武マジック!」と叫んだが、それは誤りであり、騎手の「脚決め」の仕事が結実したのだ、と固く信じている。

清水騎手は平成6年、落馬負傷で頚髄を損傷。リハビリもかなわず、引退。その時の怪我が原因で平成17年に亡くなった。


メジロモンスニー    1980.4.14生 (95年種牡馬引退、消息不明)
            21戦6勝
            高松宮杯(G2)、シンザン記念(G3)
            皐月賞2着、東京優駿2着

清水英次(1947-2005) 5569戦550勝
            重賞23勝
            天皇賞(秋)2勝(トウメイ、テンメイ)
            有馬記念(トウメイ)
            桜花賞(リーゼングロス)



散文(批評随筆小説等) 「名」馬列伝(6) メジロモンスニー Copyright 角田寿星 2009-07-15 00:32:31
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