粘膜の輝き
花形新次
〜親愛なるデーブ新大久保氏に捧ぐ〜
水道山から、鎌倉海岸まで流れているハイランドクリークには、<粘膜の輝き>
を知らせる看板が立っている。
《今年も<粘膜の輝き>の季節が近づいて来ました。<粘膜の輝き>をみんなで楽しむ
ためにも、ゴミのポイ捨てはやめましょう。》
クリークにゴミを捨てる人間がいるなんてなんだか悲しい。
でも実際そんな人間は世の中にたくさんいる。その看板のすぐ脇にも、ソース焼きそば
のプラスチック容器が捨ててあったもの。
だけど、ここいらのクリークの中では、ハイランドクリークは一番きれいなクリーク
なんだ。小さな魚は泳いでいるし、僕の友達がふざけてクリークの水を飲んでも、
なんともなかったぐらいなんだから。
僕はその年の8月、はじめて父さんと一緒に<粘膜の輝き>を見に行った。
仕事から戻ったばかりの父さんは少し面倒くさそうにしていたけれど。
どうしてもって、お願いすると、父さんは懐中電灯を手にして、しようがないなと
言いながらどこか嬉しそうな感じで、僕の手を引いて、暗がりの中クリークへ連れて
行ってくれたんだ。
<粘膜の輝き>は見られるかな?
どうかな。
僕は生まれてから一度も見たことがないんだよ。
そうか。おまえも<粘膜の輝き>を見たがるような年になったか。
父さんは見たことある?
ああ、おまえぐらいの年の頃はよく見たさ。
きれい?
ああ、すごくきれいだよ。
どんなふうに?
柔らかな粘膜がね、ジワーッと濡れてきて、テラテラ光るんだ。
そしてその光がふわりふわりとあっちへ行ったりそっちへ行ったりしてね。
この世のものとは思えないほどすごくきれいで不思議な光だった。
そして、それを捕まえようと追いかけるんだけれど、なかなか捕まらないんだ。
それが口惜しくてね。
花火よりきれい?
あんなに派手ではないけどね。
でも、きれい?
ああ、きれいさ。
見たいなあ、僕。
まあ、焦らないことさ、きっと見られるから。
結局その日は<粘膜の輝き>は見られなかった。
僕と父さんは、蚊にくわれた手足を、ボリボリ掻きながら、
家に戻らなければならなかった。
ダメだったね、今日は。
仕方ないさ。
なぜ、見ることができないのかな?
なぜかな。
本当は<粘膜の輝き>なんて、とっくの昔になくなってしまったんじゃないのかな?
でも、看板はあるだろう。
きっと、意地悪な人が嘘を書いているんじゃない?
嘘を書いて誰が得をすると思う?
誰も得しない。
そうだろう。
だったら、昔<粘膜の輝き>を見た人たちが、また見たいって自分達の願いを書いたとか。
それならそれでいいじゃないか。
そうかな?
そうだよ。おまえも、その人たちと同じように願えばいいんだよ。<粘膜の輝き>が
見られますようにって。
願っていれば、いつか見られるかな?
ああ、きっといつか見られるさ。
それからというもの、週に1回は父さんと<粘膜の輝き>を見に行った。
母さんは、いい加減にしなさい、そんなに見たければお母さんのを見なさい、
と怒っていたけれど。母さんのは父さんにまかせて、僕はもっと新鮮な
<粘膜の輝き>を見たかったんだ。
ハイランドクリークは、今日もきれいな水を湛えながら、鎌倉海岸に流れ込んでいる。
あの日よりも、もっともっときれいになって、<粘膜の輝き>にはますます良い環境
になっている。
それでも僕はまだ<粘膜の輝き>に出あったことはないけれど。