遺書(3)
虹村 凌
一条の光。今までの人生で、何度かその光を目にした事がある。絶望、それも深い絶望の中にも届く光は、どんなに心を奮い立たせる事か!狂信とも言える程に、その光を盲目的に信じ(光を盲目的に信じる、と言うのは可笑しいけれど)、我武者羅に進む事が出来る。その結果、絶望に死ぬ事は無く、晴れて、生き延びる事が出来た。そうそうある事ではないが、そう感じる事はいくつかあった。勿論、その光有るが故の副作用とも言うべき、負の効果もある。信用や金、その他の何かしらを失っている。絶望の中で死ぬ代わりに失うのだから、俺個人としては、それほど痛手でもない。絶望の中で死ぬ代わりに記憶を失う、などと言われたら、俺はかなり悩んだ挙句、死ぬ方を選んでしまいそうだが…。
俺は手に取った、下書き段階の遺書を眺めながら、そんな事を考えていた。ホープを取り出し、口に咥えて、再び遺書に目を落とす。この下書きも、下書きの下書きを元に作ったものだし、その下書きの下書きは更にその下書きから書き、その下書きは下書きとも呼べぬメモの様なものから作成されたのである。どうしてそこまで遺書を書きたいのだろうか、と自分でも不思議に思う。おそらく、最後まで格好をつけたいのだろう、と思う。何時死んでも格好がつくように、遺書を書き上げ、この恥と屈辱の多い人生を多少なりとも格好良く演出したいのだろう、と言う結論に至った。既に格好のついていない人生なのだから、最後の最後に格好をつけても、そんなに決まらないと思うのだが、どうしてだか、俺は格好付くと思っているようだ。
そんなところだけ格好ついてもな、と呟いて、俺はホープに火をつけた。短いその煙草、名前をホープと言う。俺は小さな希望をポケットに入れて歩いているんだぜ、と言ってみたいのだが、未だにチャンスに恵まれていない。どれ程ホープを吸い込もうと、特別な事はある訳でもなく、日常に特別な希望も現れたりしない。長い目で見て、薄い希望を垣間見る事はあるが、それも何か違う気がする。「希望」。美しい、甘美なその響きは、色々なものを覆い隠し、麻痺させる効力があると、俺は思っている。希望があるから、大きなリスクを無視したり軽視して、突き進んだりする。一条の光、それこそが、希望。麻薬みたいなものだな、と思う。そう考えれば、希望と言う名前の煙草を吸う、と言うのは笑える皮肉かも知れない。
俺はホープを大きく吸い込んで、灰皿に押し付けた。この部屋にある、唯一の時計である、充電器につなげっぱなしの携帯電話を見ると、時計が午前8時半を表示していた。俺は大きく伸びをして、今日はもうかかない決意を硬め、薄汚れた万年床に横になった。煙草と汗の匂いがするシーツと布団の狭間で、再び遺書についての考えをめぐらせる。
俺の行動は、正しいのか。そう考える事もある。恐らく、世間の大多数の若者は、自殺する者を除いて、俺のように遺書を書いたりする事はしないだろうと思う。いや、案外、ブームになっているかも知れないが、外界では何が起こっているのか、新聞も読まなければテレビも無いこの部屋にいると、何もわからない。まぁ、ブームになっていようがいまいが、あまり俺には関係無いが、あまりに酷いブームだと、それに乗っかっているようでむかっ腹が立つ。しかし、それを確かめる術も持たない俺は、黙って横になるのみ、である。確認しようと思えば、即座に出来る事ではあるが、それを確認しようとも思わないので、俺は黙って横になっている。誰とも口を利かない一日が、またこうして終わっていく。別に珍しい事でも、大した事でもない。こうやって、誰とも口を利かない日は年中ある。別に友達がいない訳じゃない。友達がいなけりゃ、遺書も書こうとも思わなかっただろう。別段、普段言えない感謝の気持ち、みたいなふざけた気持ちを書き記すつもりは無い。ただ、何時死んでも良い様に準備している、と俺は思っている。
眠たくなる俺の意識とは裏腹に、窓の外の喧騒は活発になっていく。俺は空調のリモコンに手を伸ばし、スイッチを入れる。カビ臭い匂いを吐き出しながら、冷たい空気が流れ出してくる。
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