遺書(2)
虹村 凌
果たして、俺は目的の自動販売機の前に到着した。俺が欲する飲み物は、あまりメジャーでないのか、近所ではここの自動販売機にしかない。俺はポケットの中から小銭を取り出し、投入口に入れた。チャリン、と言う音を立てて一枚だけが返却口に落ちてきた。少しばかり、苛立ちが募る。俺は乱暴にコインを取り出し、再び投入口に入れた。ようやく、自動販売機のボタンが緑色に輝いた。ゆっくりと、その中の一つのボタンを押した。ガシャン、と言う音と同時に、取り出し口の中に缶が転がった。
俺は身を屈め、その缶を取り出そうとした瞬間に、苛立ちが沸点に達しそうになった。俺が好き好む炭酸飲料のボタンを押したにも関わらず、飲みたくも無い清涼飲料水、ピーチネクターが出てきたのだ。ボタンを押し間違えたのか?まさか。何時ものボタンを押したのだ。配置だって変わってた訳じゃない。俺はピーチネクターを自動販売機の足元に置くと、ポケットの中に残っている小銭を確認した。もう一本なら、買える。再び、その小銭を投入し、その炭酸飲料の配置と、それに対応するボタンを確認して、ゆっくりと、力強く、ボタンを押した。
ガシャン、と派手な音を立てて、缶が落ちてきた。俺はゆっくりと身を屈め、缶に手を伸ばす。今度はピーチネクターではない。しかし、どうも俺が飲みたい炭酸飲料の模様にも見えない。ゆっくりと缶を掴み、取り出して見た。それは、見た事も無い缶珈琲であった。俺は身を起こし、足元に置いてあったピーチネクターを掴むと、思い切り自動販売機に投げつけた。
ゴキン、と言う音がする。遅れて、自動販売機が警報音を響かせ始めた。俺はゆっくりとホープを取り出し、火をつけて、大きく吸い込んだ。煙が、肺の中に満たされるのをイメージしながら、ゆっくりと吐き出す。肺の中の息を吐き出しきってから、思い切り自動販売機に蹴りを入れて、俺はその場を後にした。
気分転換を図ろうとして、こうも苛々するとは思わなかった。今日はもう遺書を書くのをやめた方がいい。こんな気分じゃ、まともな遺書なんざ書けるはずがない。俺は腐る気持ちを、かろうじて落ち着かせながら、自分の部屋へと帰る道を歩いた。
カーテンで閉ざされた暗い部屋に戻ってくると、少しは気分が落ち着く。だが、急がねばなるまい。俺には残された時間が少ないのだ。
「30代以上の人間を信じるな、Do not trust over the thirty」この格言通りであれば、あと五年と半年で、世界の真理が手に入る。既に手中に収めている事も、無きにしも非ずだが、それはあまりにも、自分自身を高く評価し過ぎだろう。
別段、その世界の真理を手に入れたいが為に生きている訳ではない。しかし、手に入るのなら、手に入れてみたい。ただ生きていれば手に入るものでもなかろうし、もし手に入れたとしても、それは俺だけの真理であって、誰かが理解出来る訳でもないだろう。ただ、考えねばなるまい。足掻け、悪掻け。あと五年半。五年半経って、それでも手に入れられない事も考えられるが、もし手に入れて、それを忘れるくらいなら、俺は。
カーテンの隙間から差し込む光が、丸めた遺書の上を通って、俺の右足を焼いている。眩しいその一条の光は、痛みさえも感じさせず、ただただ、俺の足の一部を真っ白に焼いていた。
俺は机に歩み寄り、下書き段階の遺書を手に取って眺めていた。今俺が死ねば、これが遺書になってしまう。だから、死ぬ訳にはいかない。出歩かなければ、少なくとも死ぬ確立は随分と低くなるだろう。間抜けた事故死なんてごめんだ。通り魔に殺されるのも、阿呆臭い。早き遺書を書き上げて、外の世界を闊歩できるようにならなくては。そしてその制限時間は、あと五年半しかないのだ。
何時か、何時かきっと書き上げる。そんな事では、到底書ききれるものじゃないだろう。人間はいつもそうだ。何時か、きっと何時か。後回しにした課題を、間際になって解決出来た例は無い。だから、早く書き上げねばなるまい。
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