「名」馬列伝(3) オースミダイナー
角田寿星
父は大柄な馬だった。引退レースの有馬記念で、あっと驚く大穴を開けた時、530kgもあった。そしてその仔達も大柄な馬が多く、余計なことに、よく穴を開けるとこまで似ていた。
「血のロマン」てやつを信じていた頃があった。親子三代天皇賞勝利、ダービー馬はダービー馬から。
現実はきびしい。かつて隆盛を誇ったチャイナロック、ヒンドスタンのサイアーラインは絶えてしまい、世界的に貴重なバイアリータークの父系血脈もまた、消滅の危機に晒されている。
彼にもまた、夢を託していた時期があった。持ち前の成長力でいつか、舞台は府中の2000m、秋の盾、相手は同い年の二冠馬、稀代のアイドルホースをゴール前の強襲で差し切る場面を思い描いていた。
3歳、皐月賞と同日にデビュー。ダート1200mの泥んこ馬場を大差勝ち。以後、休み休みながら出走を続ける。
3歳時、ダートのみ3戦3勝。4歳時、やはりダートの900万平場を3戦2勝。
これが、彼の前半生のすべてである。500kgを超える大柄な馬体に、脚が悲鳴をあげていた。二冠馬に挑戦はおろか、芝のレースを使うことさえできなかった。
2年間の休養の後、ホッカイドウ競馬に転厩。その時すでに6歳。件のアイドルホース、トウカイテイオーは、有馬記念での感動的な復活劇の後に再び脚部不安が生じ、惜しまれながら引退を決めていた。
彼のキャリアは、ここでほぼ終わりを告げたものだと思っていた。当時、「都落ち」した馬たちの末路は、だいたい決まっていた。しかも6歳という高齢。
復活を果たした稀有な成功例は、4歳で笠松に転厩したフェートノーザンしか知らなかった。そしてフェートノーザンでさえ、競走中止、予後不良という、悲しい結末を迎えたのだった…
まさか、この6年後、それからさらに7年もたって、彼の嬉しいニュースを耳にすることがあろうとは、夢にも思わなかった。
彼の転厩時には、まだ道営競馬というネーミングが一般的だった。中央地方の交流重賞は、大井の帝王賞と東京大賞典、札幌のブリーダーズGC、そして中央のオールカマ−くらいだった。いわゆる「交流元年」の前夜だった。
その頃道営は、4歳のササノコバンが日の出の勢いだった。先日のブリーダーズGCでは逃げた勝ち馬カリブソングに3/4馬身まで迫り、これからどれだけ強くなるのか、充分期待を抱かせる内容だった。
その後ササノコバンは、道営の最高峰レース道営記念を2連覇。しかしやはり深刻な慢性の脚部不安に勝てず、一度も北海道を出ることなく、6歳で引退した。
そして彼の第二のキャリアが、ここから始まる。
6歳秋、再始動。2戦2勝。
休養を挟んで7歳、3戦1勝。
8歳時は頑張った。6戦3勝。赤レンガ記念を勝ち、8歳にして重賞を初制覇。道営記念に出走も果たし、ヤマノセイコーの5着。
そして9歳の春、瑞穂賞。距離短縮が幸いし、ササノコバン無き後の道営トップ、ヤマノセイコーに快勝。
この年、出走回数はさらに増えて、7戦3勝。ステイヤーズC、赤レンガ記念に勝利。ブリーダーズGCはデュークグランプリに千切られるも3着に入線する。
当時、道営競馬には定年があって、それは数えで10歳(つまり現在の9歳)だった。しかし関係者やファンの尽力や、道営在籍馬の絶対数が不足していたこともあり、いわば彼のために定年枠が撤廃され、現役続行。
いわば彼の第三のキャリア、である。
10歳。8戦も走って瑞穂賞、ステイヤーズC連覇の2勝。この年、中央の平安Sに初遠征(エムアイブランの15着)。正直、出走表で彼の名を見つけた時の衝撃は忘れられない。
ただシーズン終盤でさすがに疲れたか、赤レンガ記念、道営記念と連続でシンガリ負けを喫した。
11歳は5戦1勝だが、その1勝が、値千金の瑞穂賞3連覇。
明けて12歳。初戦の瑞穂賞、8番人気の低評価を覆し、なんと同一重賞4連覇。しかも9歳から12歳にかけての勝利で、こんな馬ほんとに見たことない。
そして2戦め。6月15日、北海道スプリントC(G3、D1000m)。実は彼、これが4回めの同レースへの挑戦であり、過去7、6、4着という成績。
1番人気は大井の快速馬、一昨年の覇者で、このコースのレコードホルダーでもあるカガヤキローマン。2番人気は中央のフラワータテヤマ。彼はといえば、12頭立ての10番人気。人気者なのに、道営のファンはシビアである。
好スタートだった。カガヤキローマンらと共に先行集団を形成。4角で勝負の綾があったらしく、巧くコーナーを回った彼が先頭に立つ。そしてゴール。レコードにコンマ0.1秒の好タイム。
12歳にして、初のグレードレース制覇。後にカラジが12歳で中山GJを勝つが、彼の方が4日だけ年長で、この記録はまだ破られていない。
この年はエルムSにも挑戦。シンコウスプレンダに差のない7着と、見せ場を作る。6戦2勝、1競争中止。
そして13歳。瑞穂賞5連覇はならなかった(4着)が、重賞のエトワール賞、馬っけを出しながらも、逃げるメイショウヒダカを差して、重賞10勝めを果たす。5戦1勝。
ただ、この頃には、脚部不安はすでに屈腱炎へと発展していて、毎回が出走に漕ぎ着けるまでの闘いだったらしい。13歳の道営記念(13着、シンガリ負け)を最後に、引退。
10歳を越えてからは、走る気のない時はいつも後方まま、忘れた頃に激走して穴を開ける、何とも買いにくい馬だった。それでも引退直前まで道営の一線級で活躍した。
調教師が彼を語る時、「特別なことは何もしませんでした。馬がよかったんです」と言う。しかしながら彼と、彼を巡るスタッフの長年の苦闘があったことは、想像に難くない。
と、彼についての話は普通はここで終わるはずだが、実は昨年、懐かしい彼の名前を耳にした。彼の産駒が旭川で初勝利をあげた、というニュースである。
引退後、やはりと言うべきか受入先がなく、調教師が東奔西走して探したそうである。めでたく受け入れてくれる牧場が見つかり、種牡馬入り。1頭だけ仔が産まれた。そのたった1頭の仔が勝った、というのだ。
実はこの仔は5歳の現役馬で、クラダイナー。道営では1勝しか出来なかったが、笠松に転厩して勝ち星を重ね、現在48戦9勝、2着7回。再びホッカイドウ競馬(道営)に移り、頑張っている。
彼の現在であるが、種牡馬登録はまだあるものの事実上の引退で、今はアテ馬をやっている。普通はアテ馬は小柄な馬がやると相場が決まってるのだが、きっと頭も気性もいいんだろう。
年に合わず若い牝馬が大好き、だそうである。
オースミダイナー 1988.4.17生
父 ギャロップダイナ 母 タケノパール 母父 ミンシオ
中央8戦5勝 地方40戦16勝
主な勝鞍 北海道スプリントC 瑞穂賞4回 赤レンガ記念2回
ステイヤーズC2回 エトワール賞
付記:2010年5月25日、疾病のため、死亡。
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