遺書(1)
虹村 凌
俺は書きかけの遺書をクシャクシャに丸めて、ゴミ箱の方向へ適当に放った。もう、これで六度目である。今日一日で、六度も遺書を書き直している。今週に入って、七十四回、今月で百八十六回も書き直している。
特に莫大な財産がある訳でも無く、必要無いと言えば必要無い。自殺する予定でもないのだが、動物とは何時死ぬのかわからぬのである。備えあれば憂い無し、死ぬ前に何かの形で自分の気持ちを、意思を、残しておいて悪い事はあるまい。
ところで、何故にこうも書き直しているのかと言うと、俺は遺書に完璧性を求めているからだ。遺書とは、その人の最後の言葉であるからして、その人の全てなのである。その人の全てが、そこに表現されるのである。故に、ミスは許されない。誤字脱字など以っての他。文法的誤り、熟語の使用方法、その他全てにおいてミスは許されない。
美しい遺書を書く為に、ペン字講座にまで手を出したのだ。しかし、途中で「日本人ならば、ペンなどと言う洋式よりも、筆であろう」と思い、習字講座に変更した。
しかし、なかなか理想の遺書は書き上げられぬ。思った様に滲まず、思わぬ所で滲み、思った様に掠れず、思わぬ所で掠れる。なかなか、思い通りに行かぬのである。少しでも思い通りに行かぬ場合、それは失敗とみなされ、先ほどの様に、クシャクシャに丸められ、投げ捨てられる。
俺はホープに火をつけると、深く吸い込み、大きく吐き出した。灰色の煙が固まりになって、俺の目の前で踊る。ナメクジの交尾のようにグルグルと周り、そいつはやがて上昇して、消えていく。
ふと思い立ち、俺は立ち上がった。ポケットの中の小銭を確認すると、家の鍵を掴んで外に出た。カーテンを閉め切っていたお陰で、外がどのような明るさなのか理解していなかったが、外の世界は朝とも夕方ともつかぬ、薄暗い曇天であった。ホープを排水溝に投げ捨てて、一度大きく伸びをしてから、自動販売機のある方向に向かった。
自動販売機に向かう途中で、現在は平日の朝である事を知った。どうも、スーツ姿のサラリーマンが多い。OLや学生もいる。これは、間違いなく平日である。そして、朝である。何故なら、それぞれの顔が、色々な期待や欲望に溢れているからだ。夕方であれば、それらの顔に浮かぶ欲望や期待と言うのは、食欲と睡眠欲に限られてくる。少なくとも、俺はそう思っている。ところが、朝の顔と言うのは面白い。色々な事を考えているであろうその顔は、実に私の想像力をくすぐる。
何かよからぬ事を考えている者、本日の予定に絶望しながらも打開策を練っている者、素晴らしい一日になる事を信じている顔。そのそれぞれが、何らかの理由によって支えられているのだろう。テレビや雑誌の占い、前日の行動や言動、それも他人の行動や言動まで含めれば、色々な事が考えられる。
一番面白いのは、男女で通学したり、通勤したりするカップルである。彼らは、会話をしたり、しなかったりする上に、その会話の内容も千差万別である。下さない話から、真面目な議論まで幅が広い。面白いのは、下らない話の方である。何故、その会話に至ったのか。会話の切欠なんぞ、そこらじゅうに転がっているのであるが、しかし、その会話に至った経緯が気になる。例えば、昨日職場で見かけた女性の服装等が話題である場合、何故、今日になって昨日の話をするのか。ただ単に昨日は忘れていたのか、何らかの拍子に思い出したのか、それとも似たような服装の人物とすれ違ったのか。他にも色々あるだろう。そのファッションを肯定したり否定したりを繰り返しながら、その幸せな空気を辺りに発散している。そしてそれに無自覚である場合が非常に多い。個人的には、そのどちらかが冷静になり、周囲を意識した瞬間、と言うのが面白い。挙動がとたんに堅くなる。その無様さは、見るに耐えないのだが、面白いのでついつい見てしまう。
そんな短い間の人間観察の何が面白いかと言えば、その様に一瞬だけすれ違ったりする見知らぬ人間が、この日本国に一億人以上存在し、それらの内3000前後の人々が日々死ぬんである。誰が予想しようか?その多種多様な顔をした人々が、今日死ぬとは思わぬ人々が…中にはいるかも知れないが…、一日で3000前後、と言う俄かには信用しがたい数字を残して死ぬんである。
勿論、その3000人の中に、俺が何時入るとも知れぬのだ。だから、俺は遺書を書く。書きたい。書こうと思っているのだ。
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