「名」馬列伝(2) トウショウサミット
角田寿星
「あんちゃん」とは競馬用語で見習い騎手のことで、一種の差別語である。例えば「あんちゃんみたいな競馬してんじゃねえ」というのは、腕が未熟であるという意味の罵声である。
だが、スタッフ、騎手仲間、そしてファンからも敬愛と尊敬をこめて「あんちゃん」と呼ばれた騎手が、かつていた。
トウショウボーイ。ダービー、札幌記念の敗戦により、主戦の池上降板の声がピークに達し、ついに調教師も池上をかばいきれなくなった。有馬記念で乗り役の都合がつかず、あんちゃんに白羽の矢がたった。
だがあんちゃんは断った。中京で自厩舎の条件馬に乗るから、というのが表向きの理由。
事実は違った。「先輩の俺が池上の馬を取り上げちゃいけない」というのが真相だった。現代のフリー全盛、馬優先の考えからしたらおかしな理屈かもしれないが、誰もが「あんちゃんがそう言うなら仕方がない」と納得した。
あんちゃんとはそんな男だった。
そのトウショウボーイの姉を母に持つ馬と、あんちゃんの話。
4歳上の姉、3歳上の兄、さらに3歳下の弟と、オープンで活躍し、G2、G3クラスのレースをたくさん勝った。みんなあんちゃんの所属厩舎で暮らした。
G1ではちょうど掲示板に載るくらいの強さ、という面でも共通していた。
姉はオークスでテンモンの4着。古馬になってミナガワマンナ、モンテプリンス、メジロティターンらに勝った。
兄には少し逸話がある。3歳クラシック。実はこの年、あんちゃんは皐月賞をアズマハンターで勝って、三冠ジョッキーを達成している。ハギノカムイオーとゲイルスポートの壮絶な先頭争いを見ながらの見事な手綱捌きだった。
現代なら、誰もがアズマハンターでダービーを目指すだろう。だが、朝日杯でホクトフラッグの2着だった兄が、大舞台を前に再始動。あんちゃんは迷わず兄に騎乗し、アズマハンターには親友の小島太が乗った。
兄は最後の1ハロンまで逃げ粘り、あわやの6着。1番人気アズマハンターはといえば、スタート時での他馬との接触による出遅れ、度重なる直線での不利がたたって、バンブーアトラスの3着に終った。
弟の彼もまた、兄と同じく、軽快な逃げ馬だった。札幌の新馬戦ダート1000mを、なんと大差勝ち。弥生賞の大敗で皐月賞の権利は取れなかったが、ダービートライアルのNHK杯、府中の2000mをまんまと逃げきり勝ち。めでたくダービーの出走権をもぎ取った。
あんちゃんに癌が宣告されたのは、NHK杯の直後だった、と聞く。肝臓ガン。もう手遅れで、余命は1ヶ月。
あんちゃんはその事実を周囲にも隠しながら、彼とのダービーを生涯最後の騎乗にしよう、と決める。
医者の制止を振り切って乗り続けたとも、ダービー当日は起きあがれないほど衰弱していたとも聞くが、当事者ではないので知る由もない。だからあんちゃんの生涯最後の2レースを書き留めるだけにする。
オークスではナカミアンゼリカ。直線でノアノハコブネと叩き合いの末に、及ばず2着。こうして一枚足りない馬で、見せ場いっぱいの大善戦を演出するのが、あんちゃんの持ち味だった。
そして、ダービー。彼の一世一代の晴れ舞台でもある。あいにくの重馬場で、内は特に荒れがひどい。
スタートはよくなかった。が、あんちゃんは手綱をしごきながら、無理矢理ハナを切ろうとする。
軽快な逃げが彼の武器だったし、あんちゃんの武器でもあった。あるいはハナを切って、荒れた馬場のいいところを通ろうという肚があったのかもしれない。
今ここで脚を使えば、しまい掴まることは判っていただろう。しかしそれでもハナを切る。何か意志を感じさせる、彼とあんちゃんの逃げだった。
奇跡は起きなかった。しまいズブズブの18着。
そしてダービーから16日後、あんちゃんは還らぬ人になった。
近しい人でさえ、あんちゃんの病状を知ったのは、ダービー後だった。小島太は人目をはばからず号泣した。あんちゃん死亡の報を受けた競馬マスコミやファンも、何が起こったのか一瞬判らなかった。
騎手、中島啓之。1985年6月11日没、享年43歳。
実は、彼に関して語ることは、これ以上はあまり多くない。3歳秋にオープン特別を2連勝した後は並のオープン馬となり、6歳まで走って、種牡馬入り。地方重賞勝ち馬を2頭出した。
ただ、あんちゃんの忘れ形見として記憶に残る、そんな馬がいてもいい、と思う。
トウショウサミット 1982.5.5生 2000年死亡
24戦5勝
主な勝鞍 NHK杯
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