〜言葉なきイメージから湧き上がる芸術的言語〜
■境界に立ち竦む ということ
常々、『物事の境界に立ち竦む』必要と、その重要性を感じてきた。
その境界とは、善と悪の境界であり、決断と思案の境界であり、白と黒の境界であり、夢と現実の境界であり、主観と客観の境界であり、相対的評価と絶対的評価の並行的な把握であり、犯人と被害者の境界であり、同情と怒りと悲しみと苦しみ、さまざまな感情と責任の同居である。これらは、「結果」ではなく、その「過程」を重要視していく姿勢である。
物事は全て流動的である。生と死のように、始まりがあり、終わりがある。流れる川のように、脈々と続く「過程」がある。全ての物事は「Yes」か「No」の2つだけで決めることは出来ない。物事は、全てにおいて決して単純ではない。しかし私たちはそこに「Yes」か「No」の決断を求められる。「勝ち組」と「負け組」という単純な二項対立の価値観、システムの中に放り込まれる。二項対立とは、安易な記号化の一例であるが、「勝ち組、負け組」という発想だけに限らず、社会はほとんどが記号化による先入観と偏見などの、単純化された価値観の上に成り立っている。現代の世の中に蔓延る二項対立という構図は、安易な記号化による、先入観の意図的な捏造と、その単純化がもたらした弊害であることが多い。
具体的に例を挙げて話を進めていきたい。
現代の社会はさまざまな物の効率化を図るために、記号化・単純化を推し進めていった。しかしその結果、「信用」までもがマニュアル化されてしまい、「コミュニケーション」の本質を見抜けなくなっていってしまった。皮肉にもマクドナルドの「スマイル0円」というキャッチコピーがそれらを物語っている。笑顔までもが商品扱いされ、なおかつ開き直ってそれを堂々と公言しているのだ。このように、表面的なコミュニケーション、表面的な信用に支配されているのが現代社会の現状である。
そして、そこに悪用されているものの正体が「言葉という記号」である。
「言葉という記号」を操り、社会を意図的に操作しているのは、マスコミである。流行はマスコミによって決められる。「草食系男子」、「チョイ悪親父」などのように、まずは言葉を定着させてから、世間に認識させていくという段階を踏まえた手法をとっている。これは意図的な戦略の一つで、言葉という記号を利用した安易な記号化だ。こうして流行を生み出したマスコミは各業界と手を結んで、裏で儲けている。このように力をつけていったマスコミが、自らの持つ特性と財力によって、更に利益を上げ、ますます世相を混乱させている。
しかし、なぜ人はマスコミの作り出す言葉などに、いとも簡単に踊らされてしまっているのか。
それは社会全体が、「相対的な評価」に拘りすぎるからである。日本の社会の構造を支えている大企業が信用を効率化して考えすぎ、周りからの評価や社会的信用、つまり学歴などが持つ社会公認の信用や、表面的なコミュニケーション能力などを重要視しすぎた結果である。効率化を図っていくことで、物事は非常に薄っぺらく単純に考えられてしまうことになってしまったのだ。これによって、社会全体が「相対的な評価」に拘りすぎるようになってしまった。
相対的な評価にこだわる社会は、マスコミからすると非常に扱いやすい。相対的な考え方をしていくと、「競争」の概念が生まれてくる。「競争」には、「勝ち」「負け」といった発想を定着させやすい。「あの人よりは優れている」「あの人にだけは負けたくない」「◎◎大学に入りたい」「人からどう見られているのだろう」「ハゲは嫌われる」「女優のように痩せたい」「女優のようにきれいになりたい」。
こういった欲望や感情を上手く利用して商売をすると、必ず売れる。商品のタイトルに消費者の求めるものを書いていけばいいのだ。「必ず髪が生えてくる」「◎◎はこうやって痩せた」「東大受験に必須」「差をつける△■学」。
二項対立的な問題も取り扱いやすい。「政治は誰々のせいで腐敗した」「不景気は■●のせいだ」「モテる人、モテない人」「出来る人間、出来ない人間」「勝ち組、負け組の法則」など、など。
これら偏見に満ちた安易な記号化による言葉の数々は、相対的な評価に脅かされている人々に、解決策を提示しているかのように見える。そして、このような「HowTo本」はいつまでたっても、消えることなく次々と書店の本棚に並べられている。逆説的に言えば、答えなど出ていないし、出る見込みもないのだ。安易に答えを求めようとする消費者が多いため、彼らをうまく騙し続けることで経済は回っている。
このシステムをこのまま続けていけば、あまりにも浅はかな社会に対して、あまりにも理不尽な犠牲者が増えていき、そのシステムの被害者が暴走することによって、更に凶悪な事件は増え、日本は犯罪大国に変わっていくだけだろう。
現代社会は、法によって守られている社会であるためか、さまざまな物事に対して論理的に解決、解釈できると思っている人が多い。しかし実際は物事の大半が、往々にして論理的破綻を生み出す。だが、論理的破綻こそ、物事の本質である。物事はそもそも矛盾に満ちていて、数学的に解決できる事件など、この世にはない。法に守られているのではなく、法に縛られていることに気づいていない人が多いのだ。(私的な立場で極論を言えば、法律の最大の矛盾は、「人が人を裁くこと」である。深い意味がなくとも、人が人を裁くことは矛盾である。殺人者を死刑にすることも矛盾である。更に言えば、人が人を裁き、人が人に「罪」を宣告するのならば、人類はみな「罪」を背負っているはずだ)
そのことをよく理解し、さまざまな論理的破綻を耐え忍んで責任を果たしていくことが、『物事の境界に立ち竦む』姿勢である。それは、決して安易に記号化し、二項対立化という表面的な構図を立てることによって責任を逃れ、自分や相手を偽り、単純化することで解決しようとすることではない。
法律は言葉で人の刑罰を宣告し、それを執行する。その際、言葉とは「決断」である。
生きている限り、私たちは「決断」をし続けなければいけない。しかし忘れてはいけないのは、「決断」とは初めからあるものではなく、「思案」あってこその「決断」だということだ。単純に、答えが初めからあるわけではない。そもそも答えなどはない。
例えば、私たちは他の生物を殺して、その肉塊を食らうことで生きている。自分としては生命を奪うのは嫌だ。しかし、食べなければ自分は死んでしまう。自分が死んだら自分の周りの人は悲しむ。自分は死ぬわけにはいかない。だから、その生物を殺し、食らい、生きよう。この過程が、「決断する」「答えを出す」ということである。
しかし、今はレストランや缶詰などの「媒介」の存在によって、「今まさに生物を殺して食っている」と言う自覚を伴わずに食べている者が多い。最初から「決断」があるのだ。いや、彼らにとってそれは既に決断ではない。それは、記号化、単純化された社会の中で、ただ何も考えないようにしているだけだ。
多くの人が、物事にはなにかしらの答えがあると思っていたり、単純になにかしらの答えを期待していたりする。
しかし私たちは最終的に『何も分からない』のである。答えは自分自身で決めていくだけど、何も「唯一の答え」そのものが存在するわけではない。
だから、私たちは『何も分からない』姿勢を、その考え方を、謙虚に自分に課すべきだ。『何も分からない』とは、『何かを探求し続けよう』という意思の現れである。物事を単純化せず、先入観で決め付けず、本質を探っていこうという姿勢である。
それが現代社会では効率化を妨げるということで厄介者扱いされようとも、敢えて私は立ち止まり、常に『何も分からない』という姿勢を持ち続ける。
それが『境界に立ち竦む』ということである。
■孤独な感受性
言語だけで本質に近づくことは出来ないとさきほど述べた。では、『何も分からない』というスタンスを保ち続けながら、私たちはどのようにして本質に近づくことが出来るのだろうか。次は、ここについて考えを述べていきたい。
私たちは本質を言葉では表現できない。だからこそ、絵や、音楽や、造形美術、踊り、そして詩で表現しようとしてきた。それは、言葉とはまた違った側面から、本質にアプローチしようとする試みである。
忘れてはならないのは、小説を除く全ての芸術には、自分の伝えたいことを伝えるのに最も便利な「言葉」というものの存在がないことだ。芸術とは、言語で表現できないものを、なにか別な形式を用いることで表現するものである。そのため、その表現そのものにおいては一切の言語的な説明を排する。その意味で芸術は、ディスコミュニケーションから生まれた新たなコミュニケーションと言える。
一方、言語を用いて、従来の言語の持つ方式とは違ったアプローチをすることで、本質的なものを伝えようとしている芸術が、現代詩である。
詩は言葉で表されているため、言葉の表現だとも言えるかもしれないが、少なくても現代詩と呼ばれるものは、従来の言語感覚を否定するところから入っていると言える。その意味では、言葉では表現しきれないから必然的に生み出された新しい芸術であったといえる。
言葉は、決して本質ではなく、媒介するモノである。相手に物事を伝える為のツール(道具)であり、あくまでも「本質を指し示すモノ」という非本質的な存在である。であるから、言葉と言うものは、平易な単語だけ用いても、本質に近づくことは出来ない。かといって語彙力を増やし、複雑な言葉を用いて幅広く表現しようとしても、相手に理解できる単語じゃなければ何も伝えられない。
ではどうすれば本質に近づけるのか。本質に近いものと、決して本質に近づけないものの違い。
それは、論理性に満ちた直接的な文章なのか、論理性から脱却した間接的な文章なのか、その違いである。
詩と論文の違いから説明してみたいと思う。
詩は、論文のように説明的ではない。論文を詩だという人はいない。論文は、きわめて直接的なのだ。論文は直接的に物事を伝えることのみに終始すればいいが、詩で何かを伝えようとするのならば、『イメージ(言葉によって想起させられるもの)』のつながりや、『イメージ(言葉によって想起させられるもの)』の組み合わせなどによって、間接的に内容を伝えていくことが求められる。
小説でも同じことが言える。文章などで、「詩的な描写」などと言うことがあるが、どこが詩的なのかというと、それらは大概、直接的な描写ではなく、間接的な描写だ。
例えば川端康成の「雪国」。
「トンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。」
この文章は、直接的な説明を排除している。「直接的な説明を排除する」と言うことは、すなわち「言語の論理性を無視する」と言うことだ。そして、この描写は見事に、論理という束縛から抜け出した、ありのままのイメージとして伝わってくるのだ。
しかしこういう表現は主観的で、一般的ではない。一般的な文章として求められているのは、直接的な説明に終始する文章である。自分の基準ではなく、周りの基準にあわせると言う意味では、やはり私たちは相対的な発想を強制され、そして、相対的なものの見方をして周りと強調していくこと、それが大人なのだと思わされているのだ。
しかし、直接的な言葉に慣れ、コミュニケーションに不自由を感じなくなっていくと、『内なる孤独な感受性』は薄れていく。
もしかすると、誰もが子供から大人に変わる過程の中で孤独感や不安感をぼんやりと抱き、誰もがそこから脱却しようとしてもがき、そこから脱却したと思い込んでいるのが、そこらへんにいるありふれた大人であり、いつもでも脱却することが出来ず、苦しみながら、言葉にならない感情を発し続けている人が、芸術家と呼ばれる人たちなのかもしれない。
絵画の巨匠、パブロ・ピカソは完璧なデッサン力を持っていたにもかかわらず、子供の持つ「本質を見抜く力」に興味を持ち、子供が描いたかのような、奇妙な絵を描くようになった。それは、ピカソが描きたかったのはあくまでも「本質」であったからだ。本質を描くことが不可能だということを承知の上で、敢えてそれを実践しようとした。
ピカソの名言に
「子供は誰でも芸術家だ。問題は大人になっても芸術でいられるかどうかだ」
というものがある。このことについて、私なりに考えてみたい。
子供たちは、言葉で何かを伝えることが下手だ。感情が先回りし、それが原因でくだらない喧嘩をしてしまう。何をどう伝えていいのか分からず、そして問題の解決方法も知らず、感情が行き違ってただ傷つけあう。
大人たちは、言葉を上手く操ることを知っている。言葉を駆使し、感情的にならず、言葉によって相手を騙す方法、自分を騙す方法を知っている。
大人たちは、そうやって、「嘘」をつけるようになっていく。大人たちは利口で、手際が良い。子供たちは愚かで、要領が悪い。
しかし、多くの大人たちが平気で嘘をつく。そして、多くの大人たちが自分たちのついている「嘘」について、自覚をしていない。それと比べて、子供たちは非常に純粋であり、本質的である。
今、「大人と子供」という単純な二分化によって話を進めてしまったが、一番言いたいのは、大人と子供の境界である。子供から大人に変わっていくとき。これを世間では思春期と呼んでいる。思春期は孤独さを抱える者が多い。子供の頃は、子供同士、お互いに誰でも言語に不自由であり、だからこそ、お互いを言語を超えたところで認め合うことが出来た。しかし、大人または社会は、言語を超えたところで認め合うということを、「甘え」、「責任放棄」という形で批判する。言語の定めたルールに忠実に(もしくは機械的に)従おうとしてしまうあまり、ハンドルの「遊び」の機能を失ってしまってしまい、ガチガチ頭になってしまっているのだ。
子供時代から思春期になっていく過程で、社会に出るために必要な、相対的な考え方をさせられるようになっていき、初めて自己(アイデンティティ)を認識するようになる。そのとき、同じ年代の子供たちが次々に「大人」に変わっていこうとするのを目の当たりにするだろう。みな、子供であることをやめ、大人に変わっていこうとしているのだ。それは受験戦争であるかもしれないし、「責任」を追及し、求める声かもしれない。どんな形であれ、周りの同年代の子供たちが、次々に「大人」になっていく様を目の当たりにし、そこに違和感を感じている。少なくても私はそうだった。なぜ、みんな変わっていくのか。なぜ、今までの自分たちを否定し、自分たちの環境を否定し、そして自分たちの親を否定してまで変わっていかなければならないのか。そう簡単に割り切って、否定できるものだろうか。
大人と子供の境界に立つものの苦しみは、どちらにも属することが出来ず、『何も分からない』境界の狭間で揺れているという苦しみである。この苦しみは、大人にも、子供にも、理解されることはないだろう。
子供から思春期を経て、大人になっていく人間がなぜ、芸術でなくなってしまうのか。それは境界を漂うことをやめてしまうからである。思春期を乗り越えた人間は、自分が「子供」から「大人」に変わったのだと納得することで、思春期に悩み苦しんだ苦悩や、社会に対する矛盾を飲み込んでしまう。そのように単純化するような人間は、自分が生きていくために他の生物を殺して生きている、という現実を考えないようにして生きていくのだろう。
しかし、そうやって割り切ってしまった人間は、社会に適応することは出来るかもしれないが、本質からは遠ざかってしまう。思春期の間に抱えていた矛盾は、一生たっても消化できないことなのだから、悩むことを止めてしまおう。これは責任ある大人としては正しい判断と言えるだろう。しかし、矛盾を矛盾として抱え、それを一生抱えながら生きていくことこそが、「境界に佇む姿勢」であり、私の思う強い人間とは、そのような人間である。
人は、言葉を使いこなせば使いこなすほど、孤独になっていく。
言葉だけに頼るコミュニケーションの如何に空虚なことか。言葉は決して本質に近づくことが出来ない。そして、その中で生まれた孤独な感受性は、詩という表現形式を身に付けることにより、一層の鋭さを増すことになるだろう。しかし言葉を使いこなす人間のほとんどは、優れた詩を書くことは出来ないだろう。
優れた詩人は、言語を論理的な思考で解釈するだけでは、本質を伝えることは出来ないと言うことを知っている。詩人は、誰よりも本質を伝えることにこだわる。誰よりも、本質的なコミュニケーションを求めている。それは決して論理的な思考では成しえない。ピカソがデッサン力を放棄してまでキュビズムに突き進んだように、言語に対して、論理的理解を求めるのではなく、心理作用的な側面から、無意識のうちに『感じさせ』ようとする。
芸術家は、理解することではなく、感じることこそが、より本質に近いと言うことを知っている。彼らは、「何も分からない」というスタンスで境界に立ち竦み、言葉に侵食されていない領域で、孤独な感受性を育てている。大人でも子供でもない、白でも黒でもない、善でも悪でもない、夢でも現実でもない、主観でも客観でもあり、さまざまな感情と音色が並行に同居しているのだ。そこには、彼らだけの芸術言語が存在し、社会や言語に束縛されることのない、彼らだけの世界が広がっているに違いない。