面接(17)
虹村 凌

 彼女が浴室を出て、脱衣所をも出た気配を感じとってからすぐに、俺は湯船に体を沈めた。俺がすぐに出てきた。
「…言ったのか」
「あぁ」
「…今じゃなくても、良かったんじゃないのか?」
「他に言うタイミングがあるかどうかも、わからないよ」
「それにしたってお前…」
「てめぇだって早く言えって言ってたじゃねぇかよ」
「それはお前、空気とか色々読んだ上でって事だよ」
「もう言っちまった事をグダグダ言うなよ」
「…まぁ、そうだわな」
「…」
「彼女、怒ってるぜ」
「んな事ぁわかってるよ」
「どうリカバリーする気だ?」
「考えてねぇ」
「はァ?」
「考えてねぇよ」
「おまっ…」
「んな事まで考えてられっか」
「…」
「必死なんだよ、俺だって」
「必死すぎだろ。無謀だよ」
「笑いたきゃ笑え」
「哀れ過ぎて笑えねぇよ」
「…」
「…まぁ、頑張れよ」
「適当な慰め方しやがって」
「何て言えばいいかわかんねぇよ…」
「俺の癖に、ふざけてんなァ、てめぇは」
 俺は湯船から出ると、真っ暗な脱衣所に立った。リビングから、色々なものが倒れる音がする。あまり、驚かなかった。階下の住人だろう、ドアがガンガン叩かれている。体中の水気を拭き取って、さっき脱いだ普段着を再び着て、リビングに出た。
 食器棚や、机、椅子などが倒され、カーテンは引き裂かれ、壁には大穴が開いていた。何かの拍子に切れたのだろう、黒い電球がぶら下がり、外の明かりが舞い散る埃を照らしている。幾本ものビームが、彼女の体を貫いている。彼女は窓まで歩み寄り、窓の外に身を乗り出して、ピースに火をつけた。俺は床に転がっていたセブンスターを手に取り、キッチンの換気扇の下で、同じように火をつけた。二つの煙は、まったく絡まる事なく、真っ暗な空と天井へ、それぞれの方向に向かって流れていった。諦めたのか、ドアを叩く音はもう聞こえない。
「…何で、何も言わないの?」
「何かを言う権利は無いだろうから」
「これだけ部屋を荒らされても?」
「そんなのは関係ない」
「…」
 彼女はくるりと室内に向き直ると、ニヤニヤと笑っていた。指でピンと煙草をはじき、窓の外に放り投げた。先端が真っ赤に燃える煙草は、くるくると回って、やがて窓のフレームの外に外れて、視界から消えた。
「へぇ。自分には何も言う権利が無いって、そう思うんだ?」
「あぁ、全くその通りだ。そう思う」
「それって何?私が好きだから、とか言うんじゃないでしょうね?」
「それとは別だ。ただ、君の事は、好きな事に違いはない」
「何で?!何でそんな事が言えるの?!」
「嘘じゃない。好きだよ。本当だ。君といると、凄く平和な気分になる」
「バカにしてんの?!私とその女、どっちが好きなの?!」
 当然の質問だな、と心の中で思う。逆に、今まで聞かれなかったのが不思議なくらいである。俺は短くなったセブンスターを洗っていないコップの中に放り込んだ。火が水に触れて、ジュッと言う音が聞こえた。
「正直、よくわからないけど、きっとあの女の方が好きなんだ」
「何で?!私とそんなに何が違うの?!こういう事を言うから、私じゃダメなの?!」
 随分、普通の女なんだなこの女性(ひと)は。そう思った。
「別にそういう事を言うからダメなんじゃない。敷いて言うなら、安心できるから、かな」
「はァ?!どういう事?!」
「安心しきっちゃって弛緩するより、常に不安でいる方が何か面白いと思うんだ。まぁ、そんなのは本人の心がけなんだろうけどさ」
「…あんた頭オカシイんじゃないの?!」
「ハハ、よく言われるよ」
 俺は新しくセブンスターを取り出して、火をつける。
「俺、きっと頭オカシイからさ。ごめんな、言うの遅くなって」
「変なのは最初に聞いた…」
「変じゃなくて、オカシイんだって、きっと」
「…」
「ごめんな」
「…寝る」
「うん。寝るとこ、ある?」
「大丈夫。私が寝るとこは、確保してるから」
「そうか。うん、わかった。おやすみ」
 彼女は和室に向かうと、自分の布団だけ敷いて、横になった。俺はそれを見届けてから、リビングのソファを起こし、その上に座った。暗い部屋の中で、真っ赤な煙草の先端だけが、異様に光って見える。床にツバを吐いて、その上に煙草を落とした。ジュッ、と言う音を聞いてから、俺は目を閉じた。明日の朝は、どんな朝だろうか。ちっとも予想がつかない。残酷な匂いのする期待に胸を躍らせて、俺は深い眠りに落ちていった。

 目を覚ますと、相変わらず部屋は散らかったままだった。俺は普段着のまま寝ていたようで、時刻は出社時間丁度を指していた。勿論彼女は、既にこの部屋にはおらず、俺はとりあえず、セブンスターに火をつけた。携帯を手に取ると、彼女からの着信が何件もあった。職務に関わるから、起こそうとしてくれたんだろう。メールも着ている。どれだけ深い眠りだったのか知らないけれど、疲れていたのは事実だ。随分と、勝手な言い草だけど。
 俺はその携帯から会社に電話をかけた。多分、出るのは彼女だ。
「あの、俺」
「いま起きたの?」
「うん」
「さっさと来なよ」
「あぁ、それだけど」
「何?はやくして」
「俺会社辞めるわ」
「えっ」
 何か言おうとした彼女が、次の言葉を発する前に、俺は電話を切った。そのままキッチンに進み、水の溜まった食器の中に携帯を沈めた。適当に身支度を整えて、煙草とジッポ、財布だけを持って、火のついたままのセブンスターをソファの上に投げた。白いソファから、薄い煙が立ち上る。俺はそれを確認すると、鍵もかけずに家を出た。


散文(批評随筆小説等) 面接(17) Copyright 虹村 凌 2009-06-26 11:11:27
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