ゲイジツってなんだ
……とある蛙
1年ほど前から詩を書き始めた55歳の弁護士です。どうせなら芸術性のある詩が投稿されているようなところで批評された方がよいかなどと傲慢にも思い、あるサイトをのぞきました。そこに投稿されている詩もレスも含め全く理解できませんでした。こんなのが芸術 何の?僕の理解では勉強し過ぎで独り言をぶつぶつ電車の中で呟いている薄気味悪い人達でした。レベルの低い?くそな詩は投稿されても削除されるそうですが、ゲロのような気味悪い詩は削除されないようです。
山之口漠の世界が好きな人間なのでそこのサイトを理解するのが全く無理だというのは当初から感じていましたが。
投稿するには返信投稿を一つは書かねばならないと思い、頑張って読んで見ました。しかし、さっぱり理解できず、やっぱり書けないと思いました。 投稿詩のほとんど、レスも含め、全く理解できませんでした。これが最近の詩というものか と思い、何か書く事自体絶望的に無理でしたが、もうどうでもいいやと思い、ここで自分の考え方を書かせてもらいます(ここで書くのはずるいと思いますが、あそこで書く度胸はありません。詩など興味の無い一般の人はこう思ってます多分)。芸術とは普遍性が必要です。ベストな芸術は教養など必要としない圧倒的な感動を与えるものであると考えられます。
芸術性に関する勘違いか傲慢か?
詩が芸術であるのなら、人を感動させるものでなければならない。と思います。
その感動の理由が
?リズム感があって口ずさんでいて楽しかったり
?美しい情景が目に浮かぶ言葉の組み合わせであったり
?胸が熱くなるようなものであったり
?難解で偏頭痛がしてもその偏頭痛がもともと快感?であったり
?とにかくおっかしい!大爆笑
(順番バラバラ皮肉もあり)であってもよい。と思います。何でもあり?
金子光晴も草野心平に言っているじゃぁないですか。
「深刻そうなこと、利口そうなことを、ナイーブらしいことを、 ひとをたぶらかすそんなゼスチュアで自分もごまかされたさに、 君、詩なんておかしくって書けるか(ね、心平ちゃん)。」
(金子光晴「歴程」昭和11年4月)
しかし、薄気味悪い自己表現 独り言を電車のなかで呟いているようなものは芸術とは言えません。
アレンギンズバーグか誰かが Dylanの「激しい雨が降る」を語っていたとき「主観的真実の表現は他の者が客観化することによって初めて詩になる」ってなことを言っていました。
詩に読み手は不可欠です。読み手を想定して意を尽くさないのは薄気味悪い独白でしかなく、人に見せるべきではありません。しかし別に媚びろと言っているのではありませんが。
単純にうまいへたじゃ無く、少し下手な芸術もありだと思います。感動させられる詩こそ芸術性の高い詩ではないでしょうか。仲間内でああだこうだ言っても志の低い詩ではないでしょうか。余白に思いのこもった詩を書くことが必要です。余白の思いを自分の知っている言葉(語彙とも言いますが)で書かざるを得ないのが 詩で表現する ということです。多分。
とにかくつまらない。読む気がしない。というだけではなく薄気味悪いというのが一般の人の多くの現代詩に対する思いではないでしょうか(IQ高官の感性?)。頑張ってほしいと思います。自分もそれなりに詩は創りますが。