地蔵菩薩
within
もうやけっぱちだった。仕事も棒に振り、ここで金を借りることができなければ娑婆を捨てるか首をくくるしかない。ほんの少し、ほんの少しの種銭さえあれば取り戻せる、きっと。
仁王の睨む山門をくぐると百段はあろうかと思われる石段が続いていた。途中、右手に樹齢五百年ほどあるといわれる霊木がそびえ立っていた。いつもこの寺に来るたびに清浄な心持ちになることができた。四国で育ったせいか妙に信心深いところがあり、何かと寺に訪れ、賽銭を喜捨し、手を合わせた。特にギャンブルに身をやつしに行く時なぞは、決まってこの寺に参詣した。そうすることで少しでも運を引き寄せることができればと俗なもくろみがあった。その日もれいにもれずパチンコ屋が開く前に朝早くから参詣したのであるが、いつもは人気のない境内に一人の僧の姿があり、その時はさほど気にも留めなかったのであるが、次の日、また次の日も僧に出くわし、こちらに気付いているのか気付いてないのかわからなかったが、こちらに振り向く様子もないので気にせずひとり手を合わせた。
店の中は空調がきいていたが空気は澱み、喧噪で内耳はつぶれるようだった。
「地獄の沙汰も金次第やね」
と帽子を被った初老の常連が声を掛けてきた。僕は
「おごる平家は久しからず、ですよ」
と笑って返した。不思議と最近、面白いように大当たりを引き当てることができるようになっていた。
「どやったらそんなに出るん? 」
と隣に座っている中年の女が不思議そうに訊いてきた。
「さあ、どうしてやろ? 」
と僕は首を捻ってみせた。しかし内心ではうっすらと、寺の僧に会うようになったことと、このところのツキに何か符丁のようなものがあるのではないかという気さえしていた。
そんなことが続くと毎日のように寺へ赴き、僧を見つけると、今日も勝てると嬉々として賽銭を投げ入れた。すっかり仕事も行かず毎日パチンコ屋に通い出し、朝、開店前から並ぶようになり、常連からも一目置かれるようにさえなった。
この店、店長が変わってから出さんようになった、とか、ここは朝に当たりを入れんようになった、とか聞いても全く気にせず、内心では、何を蒙昧なことを、と思いつつ、へらへらと、そうやなあ、と相槌を打ち、今日も稼いだる、と余裕しゃくしゃくだった。確率以上の現象が続き、大黒天でも憑いたかのようなあまりの神がかり的な展開に、もしかしたらとんでもない鉱脈を見つけたのではないかとほくそ笑んだ。もう手元には十万単位の貯金ができていた。
店が開くと急いで台を取りに行く客を尻目に、ゆっくりと店内を一巡し、あまり人気のない、くつろぎながら打てる台を選んで座った。少しばかり投資がかさんでも最後には勝てると確信し、強気に突っ込み、昼頃には取り返した。夜まで粘ることはなく、夕暮れ頃には精算し、勝利の余韻に浸りながらラーメン屋で夕食をとりつつ酒を飲んだ。できあがって家に帰ると、同居人が
「よくお小遣いが続くわね」
と言うのだが
「ちょっとした臨時収入があってね。そうだ君にも小遣いをあげよう」
と一万円札を渡すと、同居人は訝りながらこちらを見、いいわよ、と突き返すので、僕は、まあ取っておいてくれよ、と下卑た笑みを浮かべつつむりやり握らせた。
一ヶ月程経った頃、もしかするとあの寺に参りに行かずとも勝てるのではないのかという考えが去来し、ひとつ今日は参詣せずに真っ直ぐ店に向かうことにした。それでうまくいかなかったら、またその時は参りにいけばいい。ゆっくりと朝食をとってから店に向かい、いつものように周囲に気を使わないで構わない席に座り、コーヒーを飲みつつ玉を弾いた。しかし紙コップの中のコーヒーがなくなった頃、万札が一枚消えた。財布の中が空になるまで、それほど時間はかからなかった。全く当たらなかった。これ以上注ぎ込むのは危ない気がし、やはりあの寺に参らなければ勝てないのだと店を出、逃げるようにバイクを走らせた。
翌日、この程度の手間で稼げるのだから楽なものだと、寺の石段を上り、境内を見回した。しかし僧の姿がどこにも見当たらなかった。背骨を抜かれる思いだった。捨て置かれた子供のような不安に襲われた。それでも、仕方ない、参るだけでもと思い直し、賽銭を投げ入れ、手を合わせた。
「もうどこの店に行ってもだめや」
と開店前に並んだ作業着姿の男が嘆息しながら言った。
「今日は出ますよ」
と僕は強気に言ったが自信はなかった。少し怖くもあった。
店の扉が開くと、いつものようにゆっくりと店内を巡るつもりが少し慌ててしまった。大丈夫、と言い聞かせ、人気のない台を見つくろい、いつもは気にしない前日のデータなるものまで確かめたが、結局勘を頼りに座った。
金を投入し、玉を打ち出すと、いつになく緊張しているのが自分でも分かった。しかしそれは杞憂に終わった。打ち出して間もなく大当たりを引き当て、昼頃には今日の勝ちを確信した。
「なしてや? 」
と帽子を被った初老の常連が呆れるように言った。僕は笑って缶コーヒーをおごって上げた。
その笑顔も薄暮の頃には消え失せていた。昼過ぎから全く当たりを引き当てることができず、ひたすら玉を飲ませるばかりで、いつしか財布の中の金を全て使い果たしていた。恐れていたこと起きてしまった。やはりあの僧に会えなかったからだ、と思えてならなかった。そう確信めいたものを感じた。しかし、ならばあの僧に会えた日だけ勝負すればいい、そう思い直した。しばらくギャンブル三昧の日々を返上しよう。まだ十分貯えがある。何も今、無理をすることはない。散財せずにいたことがせめてもの救いだった。
それから一週間ばかり休んだ。その間、寺にも参詣しなかった。僧がいなければそこであきらめる、そう心に誓い寺へ赴いた。朝の涼しげなキビタキのさえずりを聞きながら山門をくぐった。境内に上がると僧がいつものように箒で掃いていた。よし、と拳を握り締めた。僧はこちらに向くと軽く会釈をした。つられて僕も頭を下げた。
「一週間ぶり、ですかね? 」
と僧は近付いてきた。
「よく来られるので信心深い方だと思っていたんですよ」
と僧は柔らかな物腰で言った。僕は、はあ、と相槌だけ打った。
「今日もよい日和ですね」
と言い残し、僧は箒を持ち、庫裡へと消えた。参詣を済ませると心の浮き立ちを抑えることができず、氷川きよしを口ずさみながらアクセルを吹かした。
「おっ、休み明けかい? 」
と眼鏡をかけたいつもスロットを打っている青年が駐輪場で声を掛けてきた。
「ええ、まあ、そんなところ」
僕は自然に笑みがこぼれた。
「最近はこの店もよくない噂ばっかりだよ」
と青年は浮かない顔で言い、僕は
「へえ」
とだけ答え、そんなもの関係ない、と開店待ちの客の列に並んだ。今日は絶対勝てる、そんな自信に満ち溢れていた。
しかし、その自信も昼飯前には打ち砕かれていた。店内に充満する玉やメダルの流れる音、無数の効果音の重なりに飲み込まれた。何故だ? 思考停止した頭を垂れながら店を後にした。うまくいっていた頃と今の惨状の繋がりをうまく説明できず、気がつくと再び寺へやってきていた。境内には僧が箒を持って梅の木の枝を眺めていた。こちらに気が付くと
「今日は二度目ですね」
と言い、僕が
「はい、……」
と消え入りそうな声で答えると、再び僧は木の枝を見やり
「この枝、切ったほうがいいと思いますか? 」
と訊いてきた。僕は
「切らなくてもいいんじゃないでしょうか」
とだけふり絞り、石段を下りた。
月夜の森の暗がりに迷い込んだようだった。山門をくぐり道へ出ると、雨風と黴で黒くなったらしい野ざらしの小さな一体の地蔵が立っていることに気がついた。あれ? こんなところに地蔵なんてあったかしら、と不思議に思ったが、賽銭入れもあり、一円玉や五円玉が数枚入っており、たしかにここに以前から佇んでいたのは間違いないようだった。地蔵を見ているうちにぽっかりと空いた穴ぐらにとぐろを巻くような何かが込み上げ、破れかぶれに、ええい、もうこうなればという思いで、財布の中の全ての小銭を投げ入れ、ぎゅっと固く目をつむり、手を合わせひたすら念じた。お地蔵さま。