面接(11)
虹村 凌
変わらない毎日と言うのは、とても安心できるものである。俺が正気でいられるからだ。周囲の環境が変われば、俺もそれに柔軟に対応しなけりゃならない。彼女と付き合い始めた、と周囲に言われれば、それなりの反応をしなければならない。それが非常に面倒である。相手の思う通りの反応をしつつ、それでいて話を長引かせない、そんな対応を、それぞれのパターンで、いちいちやらなきゃならない。それが無い、と言うのは面倒くさくないので、俺にとってはありがたい事この上無い。むしろ、誰も知らないんじゃないのか、とさえ思う。フロアマネージャーが誰にも言わない、と言う事だって十分にありうる。そんな事を考えながら、毎日は確実に、単純に過ぎ去っていった。
俺は、その中で、ずっと頃合を見計らっていた。俺は、言わなきゃいけない。でも、この空っぽの毎日の中にいると、言わなくてもいいのじゃないかと思う。実際、彼女とは殆ど何もしていないので、あれ以上の違和感を抱える事は無く、恐らく、何かを悟られる事無く、一緒にいる事に成功している。成功している、と言う言葉が、彼女を傷つけると言う事実は見過ごす。見過ごす俺を、俺が見ている。けれど、この日々に埋没するのも、悪くは無い。ただ、彼女と一緒に生活すると言う事になったら、全部を喋らねばならないだろう。いつかバレてしまう事なのだ。そして長ければ長い程、彼女を深く、より大きく傷つける。そのタイミングを、俺はずっと掴みかねていた。
彼女は優しい。何も聞かないでいてくれる。俺が話すのを、待っているのだろう。何度か、俺を甘やかすなよと言おうと思った事があったが、俺はどうしても言えずに、その度にタイミングを見失っていた。いや、俺はタイミングを計ろうとしていたのだろうか?このまま、何も言わずにいる気だったんじゃないだろうか。
とりたてて変わらない中で、ひとつだけ変わった事と言えば、敬語を使って喋らなくなった、と言う事くらいだった。そして俺はその中で、この違和感を消し去ろうとしていた自分を、認識せざるを得ない事を、認め始めていた。
ある時、彼女が俺に再び同居の話を持ちかけてきた。
「ねぇ、一緒に住むって話、前にしたの覚えてる?」
「うん」
「もう一回聞くけど、一緒に住まない?」
「いいよ。一緒に住もう」
「!」
俺の答えが意外だったのか、彼女は驚いた表情をしていた。驚くくらいなら、最初から聞かなければいいのに、と思ったが、そんな事をおくびにも出さない。この瞬間に、俺は記憶を塗り替える自分を認識した。
埋もれてしまえば、事が進むのは早い。俺は、膨れ上がる違和感を彼女に告げる事なく、ドロドロとした本能に従い、動き、毎日をこなしていった。
ある日、彼女は残業を命じられ、俺は一人で二人の部屋に帰る事になった。別に特別な事ではない。彼女の方が、責任ある仕事を任されている訳だから、何も毎日ずっと一緒にいわれる訳ではない。ただ、こういう日は決まってあいつが出てくる。あまり、望んでなどいないのだが。
「おかえり」
「…」
「つれねぇな。一人じゃ淋しかろうと思って言っているのに」
「余計なお世話だ」
「上手い事やってるじゃねぇか。お前、役者の才能あるんじゃねぇの?」
「うるせぇよ」
「いつまで誤魔化せるのかと思ってたが、何だ、隠し通せるかもな」
「…」
「まぁ、そうはさせねぇよ。段々と違和感を感じなくなったようだが、それもいつまで続くかな?」
「どういうことだ?」
「言わなきゃわからないか?」
「いや…いい…」
「お前の悪い癖だ。わかっているのに、そうやって確認しようとする」
「…」
「まぁいい。俺はずっと見てるぜ、今後どうなるのかってな」
「帰るのか?」
「バ〜カ。帰るって何処に?俺はお前の中に戻るだけだ」
「…」
「やけに淋しそうな顔するじゃねぇか。何なら、もう少し付き合うが?」
「いらねぇよ。とっとと消えちまえ」
「ヘッ。相変わらずだな。じゃ、あばよっ」
そういうと、俺を名乗る俺はすっと消えていなくなり、俺は一人、暗い部屋の中でたたずんでいた。電気のついていないこの部屋は、相変わらず通り過ぎる電車の窓の明かりと、街灯、それらの光が、薄く、影を払いのけていた。
この部屋は、元々は俺だけの部屋だった。そこに彼女が移り住む事になったのだ。俺は、慣れた薄暗い部屋の真ん中に座り、セブンスターに火をつけた。
俺が言っていた事は、よくわかっている。今の俺にとっては、あまり有り難い事じゃない。そろそろ、言わないで居る事が限界に近づいている、と言う事だ。それは俺自身の問題でもあり、その女自身の問題でもある。見えていたけれど、見ないふりをしていたその日が、近づきつつある。どうしよう、などと考える事は出来ない。俺は彼女に、言わなければならない。
暗闇を切り裂き、俺の携帯の画面が明るく光る。サイレントモードになっているそいつは、黙ったまま、暗い空間を明るく照らし続けている。俺は電話に出た。
「もしもし」
「あ、出た」
「何だよ」
「出ないと思ったから」
「で、何?」
「え、何?何かあった?機嫌悪いね」
「別になんもねぇよ」
「あっそ。ならいいけど」
「で、何の用だよ。何かなきゃ連絡しねぇくせに」
「帰ってきたよ」
「知ってるよ」
「あ、覚えてたんだ」
「…まぁな」
「これから、ずっとこっちにいるから、時間あったらお茶でもしようよ」
「あぁ」
「まだ聞いてないんだけど」
「何を?」
「ただいま」
「…おかえり」
「うん」
「なぁ」
「なに?」
「なんでもねぇ」
「はぁ?」
「なんでもねぇよ」
「あっそ。んじゃ、またね」
電話はプツリと切れた。
あの女が、帰ってきた。別に付き合っていた訳でも無いけれど、一時期、一緒にいた関係がある。正直、俺は彼女を好いていたけれど、彼女は俺に特別な感情は無いと名言していたので、大した関係には発展しなかった。ただ、帰ってきたら、連絡を取る、と言う話をしていた。だから、俺は自分から連絡しなかったし、彼女も、ここ数年で連絡をよこした事は無かった。
俺は大きく息を吸い込み、大きく吐き出した。
立て続けに、携帯が光った。
「もしもし」
「もしもし?」
「うん?」
「今、仕事終わったよ」
「お疲れ」
「今から帰るね」
「うん。」
「ご飯食べた?」
「いや、まだ食べてない」
「じゃあ、何か買って帰るね。何がいい?」
「何でもいいや」
「うん、わかった」
「気をつけてね」
「ねぇ」
「うん?」
「ねぇ」
「愛してるよ」
「うん。好きだよ」
俺は電話を切って、セブンスターを灰皿にねじ込んだ。消えきらない赤い火を、俺は無理矢理にもみ消して、シャワールームに向かった。
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