面接(7)
虹村 凌
風呂場から、浴槽にお湯が溜まっていく、柔らかく鈍重な音がする。俺はシャツを靴下を脱ぎ捨て、ズボンのベルトを外してから、買ったばかりのピースに火をつけた。柔らかい煙が、薄暗い部屋に広がっていった。カーテンの空いた窓から、すぐ傍を走り抜ける電車の窓明かりが差し込み、煙が部屋ごとチカチカと点滅した。
浴槽に溜まっていくお湯の音が、まるで遠くで起こっている出来事のように聞こえる。俺は、ぼーっと真っ赤に燃えるピースの先端を見つめていた。隣室のドアが開いたかと思ったら、俺の部屋の郵便受けに何かが投入された。どうせ、文句を書いた手紙とかだろう。見る気にもならないので、そのままにして、ピースを口に運んだ。何本目かの電車が通り過ぎた時に、誰もいない筈の和室に、誰かいるのが見えた。俺は二本目のピースを口に咥えると、一本目のピースで火をつけ、短くなったそれを灰皿に放り込んだ。ジュッと音を立てて、真っ赤だった先端が真っ黒に変化した事を教えてくれた。
「ねぇ」
和室の中から、女が呼ぶ声が聞こえる。
「こっちに、来て」
女の声が、呼んでいる。
俺はピースを口に咥えたまま、その場に立ち尽くしていた。
「寒いの」
脂汗が滲み出る。ジリジリと、ピースの先端が音を立てながら燃えている。
「もっと近くに来ていいよ」
我慢出来なくなった俺は、和室に飛び込んで灯りを点した。勿論、誰もいない。布団すら敷かれていない、狭いのか広いのかすらわからない六畳が広がっているだけだった。
「はは…はははっ!」
人間と言うのは、本当に困った時とか驚いた時と言うのは、笑うんだと聞いていたが、情けなくなった時も笑うとは思っていなかった。また、涙が出てきた。右手にピースを挟んだまま、俺はしゃがみこんで、笑いながら、泣いた。まぶたが痛んだ。
どれくらいの間、そうしていたのかわからないが、浴槽からお湯が溢れる音が聞こえたので、立ち上がり、蛇口を捻ってお湯を止めた。風呂場から出て、意外と長いままだったピースを便器に放り込み、俺はズボンを脱ぎ、パンツを直接洗濯機に入れた。桶を掴んで、浴槽の中をかき混ぜる。お湯がザバザバと溢れ出し、その度に足を洗う。ひとしきりかき混ぜたところで、浴び湯をして浴槽に体を沈めた。矢張り、お湯が溢れて流れていく。
深いため息をつく。幸せが逃げるらしいが、もう、よくわからない。何時になったら、見えなくなるんだろう。時々見える幻影が、幻聴が、ずっと俺を悩ませている。そしてそれは、ただの幻視や幻聴ではなく、実際にあった事を、ずっと再生しているのだ。だから、苦しい。何時もだったら、見えようが聞こえようが、俺は無視していたが、今日はそうも行かなかった。やっと、この指に届いたんだ。頼む、もう、俺を解放させてくれ。
「駄目だね」
浴槽の外、それも下側から俺の声が聞こえた。
「お前は俺に勝つ事なんか出来ないんだよ」
「…」
「わかってるだろう?この孤独も、苦痛も、不安も、後悔も、憎しみも、全部俺のものだ。全部俺のものだから、全部お前のものだ。どれも放すもんか。死ぬまで抱えてやるぜ。」
「何でだよ」
「何でも何も無いだろう。それはお前が望んだ事だ」
「俺は望んでなんか」
「望んでなんかいない、とは言わせないぜ」
「なっ」
「これはまさにお前が望んだ事だ。手に入らないのなら、己を閉じ込めようとしただろう」
「…」
「日影ってのはな、こういうのはよく育つんだよ」
「…」
「ちょっとやそっとじゃ、俺は消えやしねぇよ」
「消えろ…」
「消えやしねぇよ。俺は一生、俺の傍にいるぜ」
「おい」
「…」
返事は無かった。浴槽から身を乗り出して覗いたが、そこには誰もいなかったし、誰かがいた気配も無かった。
「クソッ」
俺は再び浴槽に座り、今度は頭の先までお湯の中に浸かった。
「ぶぐがぼがぼが」
口から、大量の気泡が溢れ出る。目を閉じて、真っ暗な世界の中に閉じこもる。どこからかわからないけど、何色かもわからない光が点滅しているのが見えた。見えた、と言うのは間違いで、感じ取れたというのが正解なんだろうが、とにかく、そう見えた。
「まだ話し足りないのか?」
再び、俺の声が聞こえた。
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