面接(6)
虹村 凌

 あまり会話の無いまま、駅の改札口に着いた。大勢の人間が、無造作に出たり入ったりしている。前に誰かが、水族館みたいだな、と言っていたのを、いつも思い出す。確かに、色んな種類の人間が、ちょっとずつ違う表皮で、向こうからこちらへ、こちらから向こうへ、群れの中を擦り抜けるように進んでいる。そんな事を思い出しながら、回遊魚の群れの中を歩いていた。改札口の手前まで来た時、彼女が後ろから俺のジャケットの袖を掴んで引っ張った。回遊魚は泳ぎ続けないと死んでしまうらしいが、ここの人間と言うのは、歩き続けないと他の人にぶつかるらしい。彼女に引っ張られながら、改札前を横に逸れて、壁際まで辿り着いた。
 彼女は少し下を向いていた。右手は、俺のジャケットの袖を掴んだままである。傍を通り過ぎて行く人達が、色々な視線を投げかけていく。その程度の視線に絶えられない柔な精神はしていないが、さっきまでとは違う彼女の態度に、少しばかり動揺する。彼女は小さなため息をつくと、顔をあげて一言だけ
「歩くの、早いです」
と言った。
「ごめん!」
 反射的に謝る。自分が、若干早歩きなのは知っていたが、ここにきてその注意を払うのを忘れていたのは、大きな失態である。足が長い訳じゃないのだが、いやむしろ短い方なのだが、どういう訳か歩くのが早い。男友達にも「早過ぎるよ。女の子に嫌われるぜ?」と言われていたのを思い出し、冷や汗をかいた。
「大丈夫ですか?」
 右袖を持たれて身動きが取れないまま、身を屈めて顔を覗き込んだ。その瞬間、ある予感が脳裏を横切る。期待と不安の入り混じったそれは、凄い勢いで点滅している。
「明日から、どうしますか?」
 彼女は下を向いたまま、質問してきた。どうすしますか?と言う質問の内容は、聞かないでもわかる。同じ職場にいるから、どうする?と言う事である。どうしますか?と質問する以上、あまり公に知らしめたくないのだろう。それとも、俺の度量を試しているのだろうか。そのどちらかだなのは間違い無い。そして俺は、試されるのは嫌いだ。
「今日までと、同じ態度でいきましょう」
 俺は身を起こして、ちょいと辺りを見回した。同じ態度を取ろうが、ここら辺で職場の人間に見つかってしまっては、どうしようもない。今のところ見当たらないが、もしかしたら、もう既にどこかで見られていたかも知れない。俺は再び彼女の顔を覗き込んだ。
「…」
 彼女は俯いたまま、何も言わない。相変わらず、俺の右袖はつかまれたままだ。彼女の左手が、俺の右袖をぐっと力強く引いた。突然の事にバランスを崩し、俺は彼女の方に引き寄せられる。
 先ほどの予感は的中した。
「…それじゃ、また明日」
 彼女は左手を離すと、俺の脇を擦り抜けて改札口の向こう側へと、足早に消えて行った。
 予感が的中した喜びと同時に、膨大な量の違和感と不安を抱えた俺は、呆然としながら彼女の背中を見送っていた。彼女は瞬く間に、回遊魚達の群れの中に飲み込まれていった。見えなくなってからも暫らくの間、俺はその場に立ち尽くしていた。
 彼女がした事が衝撃だったのでは無い。かと言って動揺しなかった訳じゃない。ただ、動揺の原因は、彼女の行動じゃない。彼女が残した、違和感である。先ほど、俺の脳裏を過ぎった不安と言うのは、これだったのかも知れない。膨れ上がった違和感と不安は、俺の足運びを重たくした。体を引き摺るようにして別の路線の改札口に向かうと、俺は一本の太い柱にもたれかかり、一歩も動けなくなった。 違和感の原因はわかっている。しかし、それは彼女には言えない。手に入れた幸せよりも大きな、違和感と不安、それに伴った恐怖が俺の両肩にのしかかった。寒気で震えそうな体をひきずって、俺は改札を通り抜けて、ホームへと続く階段を上っていった。丁度、電車がホームに滑り込んで来た。



「じゃあ、行ってくるわ。すぐ帰ってくるけど。」
 俺はそういって、部屋を出た。錆びついた鉄骨階段を降りて、アスファルトの地面に足をつける。後から降りてきた女は、白い息を吐くと、何も言わずに歩き出した。俺もそれに倣って歩き出した。街灯の間隔が広い道を、並んで歩いていた。何かを喋っていたが、内容はよくわからない。ある程度歩いた時点で、俺の横を歩いていた女が、コートの袖を引っ張り、
「歩くの早いし寒い」
と言った。俺は歩く速度を落とし、その女の手を握ろうとしたが、俺の手は何も掴めなかった。手首を廻し、その女の手の位置を探ったが、どこにも手は無かった。俺は心臓が一瞬で冷えてゆくのを感じながら振り返った。
 どこにも、女なんていなかった。


 ガタン、と言う大きな衝撃で目を覚ました。そこは俺が降りるべき駅で、丁度ドアが開き、みんなが電車からあふれ出る瞬間だった。俺は慌てて忘れ物が無いかを確認して、電車を飛び降りた。人にぶつからない様に追い越して、階段を駆け下りる。
 嫌な夢を、見た。改札を出た所にある自動販売機に電子カードを当てて、天然水を買って、一息で飲み干した。心臓が冷たいまま、物凄い速さで脈打っている。呼吸も乱れている。ポケットに手を入れてから、煙草を切らせている事に気付き、俺は仕方なく歩き出した。家に着くまでにある自動販売機にコインを入れると、全てのボタンが赤く光った。何時も通り、セブンスターのボタンを押そうとして、指が止まった。少しためらった後、俺は黄色いピースのボタンを押した。カタン、と柔らかい音がして黄色いピースが落ちた。セロハンを剥がし、一本取り出して、火をつけた。いつもと違う香りが、広がる。自動販売機に寄りかかり、ピースを深く吸い込む。いつか、この匂いにも、慣れるんだろうか。そんな事を考えていた。

 マンションの3階にある自室のドアを開けると、溶けたバターのような重たい湿った空気が広がっていた。後ろ手でドアを閉め、チェーンをかける。ジャケットを椅子の上に放り投げて、ハンガーに掛かったタオルを手に取ると、脱衣所の方から物音が聞こえた。
「あ?」
 脱衣所のドアノブに手をかけた時、聞き覚えのある声が聞こえた。
「見てもいいけど、ゲンナリするよ?」
「はァ?」
片方は女の声、もう片方は、俺の声だった。
「だって私、ガリガリで肉付き悪いし。萎えるよ」
「萎えねぇよ!」
 俺はドアノブを廻し、ドアを勢いよく開けた。電気のついていない真っ暗な脱衣室の真ん中に、俺は立ち尽くしていた。脱衣所の電気をつけて、風呂場のドアも開けたが、誰もいなかった。脱衣所のドアに叩き付けた拳がズキズキと痛む。何度も、何度も叩き付けた。擦り剥けた拳から、血がうっすらと滲み出ている。
「静かにしろよ!」
 壁の向こう側から隣の住人が壁を叩き返してきた。
「うるせぇ!」
 俺は壁にケリを入れると、思い切り蛇口を捻って、浴槽にお湯を張る準備をした。


散文(批評随筆小説等) 面接(6) Copyright 虹村 凌 2009-06-11 23:52:17
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