服部 剛第二詩集『Famila』
渡 ひろこ
服部剛氏の第二詩集となる『Familia』を開くと、そこには温かな潮流が静かに流れていた。
服部剛という詩人は日常の何気ない風景の中から、その温かな視線で拾いあげてくるアングルが、
マザーテレサのごとく慈悲深く万人への愛を映し出している。
普段なら通り過ぎてしまう景色を切り取って言葉にできるというのは、
老人介護の職に就いている服部氏ならではの優しい人柄も、
その一端を担っているのだろう。
隣に座る/野球帽にジャージ姿のおじさんが/じぃ〜っとこちらを見るので/
僕は少し眉をしかめた
(中略)
手にした白いステッキを頼りに/とんとんたたきながら/雨水で濡れた床に/
少し足を滑らせ/開いたドアからホームへと/溝をひょいとまたいで/
ぎこちなく降りていった/
電車のドアが閉まった/
手にした本を開いたまま/なにもできず/曇りガラスの向こうに消える/
おじさんの後ろ姿を見送っていた/
盲目なのは、僕だった。/
(「車内の隣人」より抜粋)
ふと出会った車内の光景でも、訝しげに思ってしまった自分を悔いているのである。
ここに“人の痛み”が共有できるという優れた感性が顕著に表れていると思う。
それを私自身、身を持って感じたのがこの作品である。
車に跳ねられ/長時間の手術を終えた後/息子が横たわるベッドの傍らで/
涙を堪えながら母は/布団の脇にこぼれた手を/握りしめる/
消灯時間を過ぎた夜更けにも/闘いの後の休息に瞳を閉じた/
息子の寝顔をみつめる母 に宿る/マリアの面影/
(「Maria」より抜粋)
実は服部氏曰くこの詩の題材は、昨年息子が交通事故で重傷を負ってしまった私をモデルにして書いたものだという。
私に聖母マリアをイメージして頂いたとは何とも恐れ多く、服部氏の中で私がかなり美化されている傾向も否めないが、
それでも私共親子に心を寄せられて、作品として書いて下さったのは、詩友として嬉しかったし有り難かった。
最初にこの現代詩フォーラムで「Maria」を見つけた時の感激は、今も忘れられない。
それは同時に他人の痛みを我が事のように思う、服部氏の柔らかな詩人としての感性が、光を放つ瞬間でもあったと思う。
その光に照らされて、息子も奇跡的に健常者と同じ身体に戻ることができたと言っても過言ではない。
服部氏の持つ、それこそ神々しい詩の祈りのおかげだと今も感謝している。
さりげない日常に深い慈しみの目を向けて、そこから掬い取る人の心の機微。
それらを優しく織り込んでいる作品の数々は、静かに胸に沁みてくる。
服部剛氏第二詩集『Familia』は、文字通りこの詩集を手に取る人々が、
いつの間にか「家族」のような温かい潮流に浸れる、慈愛に満ちた祈りの一冊なのである。