詩集「Familia」に込めた想い 〜(もう一つの世界)に尽いて〜 
服部 剛

 昨夜は新しい詩集「Familia」の出
版記念の詩の夜であった。何人もの詩の仲間
がこの本を手に取り、休憩時間にメッセージ
と名前を書いて、一人ひとりに手渡せた時、 
僕は詩を書く者の幸せを、密かに感じていた。 
本の余白に僕は、以下の言葉を記した。 

  やがて詩人は 
  四つ葉のクローバーを 
  誰かに手渡す、旅に出る。 

 この本を手の取る人の胸に、密かな灯をとも
す、贈りものとなるように願い、この詩集に込
めた想いを、ここに記しておきたいと思う。 

 詩集の序文に書いたように、この詩集の頁を
開く人は、深夜の無人の映画館に いるような
感覚で、この詩集の素朴な情景をスクリーンで
見るように読み進めていただけたらと思います。 
その世界観は素朴な中日々に何かある、小津安
二郎の映画的な カメラアングルに通じるとこ
ろがあるかもしれません。無人の映画館にいる
ような感覚・・・もし百年後にこの詩集を誰か
が手に取ったら、その読者にも「深夜の無人の
映画館」に座って、詩の物語の映画を観ていた
だければと思います。 

 この詩集の中で祖母やある詩友、そして日々
働く老人ホームの お年寄り・・・それらかけ
がえのない人々の「死」を通じて 僕が感じた
こと(受け取ったもの)が語られています。  

 親しい人々が世を去る時、僕は(あるいは僕
の周囲にいる人々は)「地上に残されている」
と感じることがあります。その一見何の変哲も
無く繰り返される日々を、只退屈な繰り返しと
して過ごすのではなく、昨夜BensCafe
にかけがえの無い詩の仲間で集ったように、日
常の彩を変えて生きてゆけるかを、僕は問われ
ている気がすることがあります。いつかきっと
「この人生という旅は、天からの贈りものだっ
た」と思える日を信じて、詩の道を歩んでいき
たいのです。 

 今はもう地上にはいない祖母・ある詩友・老
人ホームのお年寄りは、僕の詩集「Famil
ia」という本の中でいつまでも生きており、
僕や読者の皆様へ本当に伝えたい遺言のように、 
開いた頁の中から(何か)を語りかけてくるで
しょう。その密かなメッセージを、この詩集を
手に取る読者の皆さんに耳を澄まして聞き取っ
ていただく為に、僕はこれらの詩を書いたよう
な気がしています。 

以下、詩集に掲載されている、遠藤文学の先生、
山根道公氏が書いてくださった素晴らしい寄稿
文より引用します。 


   大切な人の死が詩人の心を育むのだろ
  う。 遠藤周作は若き日に大切な人の死と
  幾度も向き合っている。その遠藤の処女
  評論「堀辰雄覚書」のなかには「詩人の
  みが死について語る」(コクトオ)「詩
  は視(discover)である」(吉満義彦)
  という引用があり、詩人の詩と死と視と
  が相重なる世界が語られている。詩人が
  死者とつながるとき、覆うもの(cover)
  が除かれた(dis)世界を視、詩が紡がれる。

     〜中略〜

   「Familia」それは生者だけではない死
  者とも親しい絆でつながる詩人の詩と死と
  視と志との相重なる世界から生まれた詩集
  といえるのだ。  


 という「死者との対話」によって織り成される 
「もう一つの世界」が詩集「Familia」と
いう本の中には封じ込められています。 

 また、詩集の中に掲載の「ルーアンの鐘」とい
う散文詩は、三年前に長崎の遠藤周作文学館に行
った時、そして昨年町田文学館で「遠藤周作展」
が行われていた時に、再現されていた「作家の書
斎」に僕が佇んだ時、机の上の、ランプの灯に照
らされた白紙の原稿用紙に 
(日頃なんとも思っていなかった身近な人々が、 
 言葉にならぬほどかけがえのない人々に思え、 
 それらの人々は原稿用紙の白紙に顔を浮かべて
 いつまでも僕に微笑みかけていた      )
という、僕がいつかこの人生という旅の果てに観
る夢であるという感覚は、詩集「Familia」
という本を貫く(もう一つの世界)の核心だと思い
ます。 

 この詩集と出逢うあなたが、本の中の(もう一つ
の世界)に生きる人々の密かなメッセージを聴き取
ることができますように・・・ 僕は心から願って
います。 








散文(批評随筆小説等) 詩集「Familia」に込めた想い 〜(もう一つの世界)に尽いて〜  Copyright 服部 剛 2009-05-19 00:54:05
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