じぶんの詩を信じること
白井明大
じぶんの書いたものを、信じてあげる。
泉からきれいな水を掬いとるように、
これはじぶんにとってかけがえない詩なんだ
と心にきめて、じぶんの書いたものを信じる。
それが、じぶんの詩にとっても、詩の書き手であるじぶんにとっても、必要で大事なこと。
けれども、もっともらしい批判を浴びたり、まるで誰にも読まれなかったかのように反応がなかったりすると、その気持ちが揺らぐ。
その揺らぎもまた、しぜんなことだけれど、その気持ちの揺らぎは、書きたい、書こうと思ってその詩を書いたこころの動きほどには、大事じゃないんじゃないか。
詩の作者としてのじぶんにとって大事なのは、書こうと思った気持ちや、実際に書いた詩そのもののほうじゃないか。
詩人の片岡直子さんが詩学のワークショップの講師をしていたとき、
「あなたの詩をいいと言う人の話だけ聞きなさい」
とある受講生にアドバイスしたという。
その話をあとで知った詩学の寺西幹仁さんは、
「賛否両論を浴びてきた、片岡さんらしい、経験に基づいた知恵ですね」
と笑って言った後、こう付け加えた。
「それはすごく大事なことだと思います」
*
そうだ。
<じぶんの詩をいいと言う人の話だけを聞くこと>は、すごく大事なこと。
たしかに、他人の意見を聞かないというのはよくない、と教わってきた身にとっては、まゆをひそめることかもしれない。
けれど、詩は、とても個的なことからうまれ、はじまるものだ。
とても個的なものにとって、他人の意見は、少なくとも、あとまわしでいい。
(その詩をどう評価するかは、それぞれの読み手にゆだねられるものでもあるし)
自身にとって交換不可能なことばが、詩なのであって、そのことばを別のことばに置き換えることはむずかしい。あるいは、できない。
そもそも、いい詩には微量の、[いままでこの世になかった何か]が含まれるものだけれども、その[何か]がこの詩には含まれている、と誰もが気づけるわけではない。
むしろその[何か]が新しいことであればあるほど、拒絶されたり否定されたり無視されたり、することがある。
もしかしたら、詩に含まれている[いままでこの世になかった何か]に気づけず、理解できないままに、批判がなされているかもしれない。
そのことが分かるのは、気づけた人、その詩をいいと感じることができた人だけだ。
だから、いいと言う人のことばに、書き手の詩人が耳をかたむけることが、とてもいい栄養になることがある(でもそれさえ、いい栄養にならないこともある。詩は個的なものだから、他の人が立ち入れない、書き手だけの領域に属するものだから)。
詩人は、そうした批判も無理解も否定も拒絶も無視も、そうしたものを気にしないで、じぶんの書いた詩のなかにある[何か]を信じて、それを大事にして、ことばにしていく道を歩んでゆけばいい。
[いままでこの世になかった何か]というのは、それは、詩人自身だと言いうる。
その詩に感想や批評を言う人は、その[何か]を生かそうとする人だろうか、殺そうとする人だろうか。
それを、作者である詩人は、ちゃんと見分けることが大事だけれど、それはたやすく見分けられる。
*
優れた批評は、詩人を育む。
そして、詩がそうなように、優れた批評もまた詩の地平を切り開く。
そうした批評が、じぶんの目の前に現れたとき、しぜんと耳をかたむけたくなる。
無理して聞く必要はない。
無理をしないと聞けない話は、書き手にとって、あるいは他の読者にとってさえ、たいした話じゃない。
聞かなくてまったくかまわない。
優れた批評なら、しぜんと聞きたくなるもの。
それと、こうも言えると思う。
じぶんの道が決まっているなら、他人の反応には左右されない。
日々をいっしょうけんめい生きること、学びたいと思ったものを学び、見たい知りたいと思ったことにふれ、会いたい話したいと思った人と出会うこと。
それらをたよりに進む以外に、ほんとうは、詩を書いていく道における手助けはない。
何が好きで、何にこころを動かされ、どんなふうにいま日々暮らし、なぜそのことばで表わそうとするのか……。
そうしたことの一つ一つから、やがて道はみつかって、そしてつづいていく。
なによりも、じっさいにじぶんが書いた詩から、道はうまれていく。
じぶんの書いた詩を信じることは、詩を生むじぶんの道を大事にすることと結びついている。
詩を書くのが自由なように、発表された詩について感想や批評などを述べることも自由だ。
じぶんの詩を大事にするものは、他の人がことばを発すること自体を否定すべきではない。
となると、もしかしたら感想も何もまったく反応がないかもしれない。何かひどく傷つくことを言われるかもしれない。
そのとき、思い出してほしい、
「わたしはこう書きたいんだ。これがわたしの詩だ」
と思って発表した気持ちを。
その気持ちは、きっと書き手に、じぶんの詩を信じようという勇気をふるいたたせてくれる。
詩のうまいへたは、あまり意味がない。才能のあるなしも、たいしたことじゃない。
じぶんにとって、かけがえのないことばかどうか。それが詩の値打ちだと言っていい。だからこそ、その詩に、その書き手にしか書きえない[何か]が含まれるのだから。
偽りなく、これはじぶんの詩だ、というその事実は、詩において、何よりも尊い。
「だってじぶんはこう書きたいんだ」という気持ち。
それは、詩人が、詩を生みだすための、土台であり、すべてだと言っていい。