詩の場に願うこと
白井明大
こころの動きそのままをことばに表わそうとするとき、しぜんと表われてくることば。それは、詩。
(それを詩とも何とも名づけたくなかったら、それは何と名づける必要もなくて)
書きたいままに、書いたことば。それは、詩。
私は詩がすきで、詩を書いている。
言いかえるなら、こころの動きそのままをことばに表わすことをするのがすきで、それを書いている。
詩には、こころの動きを表わしたものがある。
それをあたりまえだと思える人は、しあわせだと思う。
こころの動きそのままをことばに表わそうとすることに、よろこびを見出せる人は、もうそれだけで、しあわせ。
(ただ、詩は、こころの動きを表わすものばかりではなく、それ以外のものもある。
詩には、こころの動きを表わすものとは別のものも、ある。
どちらかが詩で、もうかたほうは詩じゃない、ということもなく、どちらも詩で、それぞれの詩がそれぞれの人にとってだいじ)
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こころにもいろいろとあって、そのなかの、ふだんは気にもとめないような、時とともに流れ去っていくような些細な、こころとも意識されないくらい微小な動きが、とくにすきだ。
湯のみでお茶を飲んでいて、すっとテーブルから持ち上げたとき、湯のみの下になっていたところに水滴がついていて、つい手のひらでぬぐいたくなる心の動きのような、そのくらいの微小さ。
あるいは、(雪舟えまの短歌にあるように)デジタル時計の表示がちょうど22:22を示した、そのときちょうどたまたま時計を見て、そのたまたまがちょっとうれしい、といったそんな微小さ。
そうしたところにひっかかりが生まれて、ことばにしたくなる。
ことばにしたくなるような、詩にしたくなるような、こころの動きの何にひっかかりが生まれるかは、また人それぞれで、だから詩も人それぞれとなり、いろいろな詩がうまれるから、それも楽しい。
その人の、独特のひっかかりがことばに表われていると感じられる詩を読めるとき、それはとてもうれしく、いい詩に感じる。
そのときその詩は、ふっきれたようにみずみずしく、うまれたてのまま、ずっとずっと時を超えて、あざやかに詩としてある。
それは、だれにも気づかれずひっそりとあった草花の、目をこらしたときはじめて気づく、初々しい緑のうつくしさのようにあることがある。
こころの動きそのままを、じぶんだけのひっかかりとして書き表わすことは、時に勇気のいること。
その勇気をふるわせて、ことばにし、詩として発したとき、それが、どこかことばに、言い切りのできない、とらえどころのないような印象があるとき、その詩が本当に、初々しい緑のうつくしさを放っていることがおうおうにしてある。
(だからといって、奇抜なものがよい、ということではなくて、奇抜でも、平凡でも、どちらでも書きたいようであったらそうがよいように思え、むしろ、「どこかで見たような気がする」と思われる詩に、いい詩があるんだと言う詩人もいる)
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詩の場は、ドキドキしながら、それでも勇気をふるわせて、えいっと詩を発してくる、そのときのその詩人を、そしてその詩人の詩を、初々しい緑のうつくしさを見つけるような目で、迎えられるものであってほしいと願う。
その詩には、詩人の心のうごきそのままが、表われようとしていることに、細心の注意を払えるような、そうした場であってほしい。
葉が生い茂る木の枝のどこかから、軽やかな鳥のさえずりがきこえる、その声の主はどこの枝にとまっているだろうと枝枝をさがすときのような、慎重で、なおかつ、期待に胸をたかまらせるような、そんなまなざしをたたえる場であってほしい。そう願ってやまない。