風呂場のサイクル
電子ノ猫人
私の実家では風呂の掃除は当番制となっている、次男、三男、そして私だ。
私から始まり、次男三男と続きまた私に戻る。これは私の居る限り続いていたし、私が1年の間実家から離れていた間も次男と三男のサイクルで回し続けていた。
こうしたサイクルを持つことで風呂場と心身の清潔さは保たれ、かつ安定した風呂場での休息を得ることが出来る。たまに溢れさせたり湯加減のいざこざはあれどそれはあくまで担当の匙加減でありひと時の物に過ぎない。
かくいう私もそうだ。私はどちらかというと熱い風呂が好きなのだが、不運にもその日の一番風呂は弟だった。
出て開口一番「熱すぎる」と言われ、その後入った風呂は水で埋められた私にとって温く寒い物となってしまった。このような不可抗力も共同生活の中では仕様のないことと割り切っている。
しかし、そのサイクルが崩れるとなると事態は変わってくる。ある日弟が疲れを訴え早々に寝てしまい、代わりに三男がやることとなった。そしてその代案として次回三男がやる番には次男がやることと言う折衝案が取られた。
が、その折衝案虚しくやることもなく私は渋々シャワーで済ませることとなった。
同じ体を洗うにしても、そこで得られる安らぎや精神的な疲れの回復量は段違いだ。ずっとっ経ったままと座ったままでは足の痛みも違うし疲れも出てくる。
さらに間の悪いことに今度は三男が次男の怠惰な対応に憤慨しストライキを起こしてしまった。こうなっては「風呂に入りたいものが洗う事」という原則が出来てしまい、私は風呂に入りたいが為に風呂を洗う羽目となった。
かくしてサイクルは一時的にではあるが崩壊してしまった。が、ほとぼりが醒めたのちまたいつも通りのサイクルが確立することとなる。こうしたことは珍しいことではなく頻繁に起こっている。このような他愛のない当番もそうだし、体を構成する骨や細胞も破壊と再生を繰り返し日々成長している。
破壊の中に成長があり、さらにその中にも一定のサイクルがあり命は巡っている。風呂と言う休息の場はそのような馬鹿げた哲学を考えるに相応しい場なのかもしれない。