暑いでもなく 寒いでもなく
気温という言葉の存在すら忘れ 柔らかな光につつまれる春心地
昨日まで鈴なりに咲いていた桜花は 「全ては夢だ」といわんばかりに姿を消し
雀を思わせる褐色の枝々の隙間に 点々とゆれる葉の影でふいに少女と目があった
魅せられて私の足は少女へ向かう
「おまえは 誰?」
私が口を開くより早く少女は答える
「幽霊、桜幽霊 」
「幽霊?白昼堂々 足のある幽霊だって?」
音を形作る前の私の声に少女は答える
「わたしの足は桜の根 わたしの腕は桜の枝 わたしの存在は桜そのもの 」
微笑む少女の差し出した手を握ると 私は桜そのものになった
私が一歩踏み出すと乾いた地面からこんもりと花びらが湧き出し
遥か遠く 次に桜が咲く街の春まで続いた
私がふうっと息をはくと 花びらは私自身になって空に舞い上がり
遥か高く 眼下には桜前線が見える
私は空を漂いながら幽霊に何気なく核心を尋ねる
「桜は なぜ儚い?」
この星に咲くすべての桜花を瞳にして 少女は私に向き直る
「儚い? 一つの桜の樹木はあなたと同じくらい長い時間を生きるの
わたしを儚くするものは人」
「人が?」
「わたしはたった一粒の種さえも残すことができないの
この地上に咲くすべての桜はたった一人のわたしが 人によってつながれ続けた夢」
「夢?」
「わたしの命は萌え続ける あなたよりもずっと長く
あらゆる場所にわたしは咲く 次の春にも あなたの内にも
それでもわたしが儚いのは わたしが人の夢だから」
少女はそっとくちづけて 最後の薄紅の風にのせ私を地上へと帰した
一瞬の微睡みから目覚めると ソメイヨシノは知らん顔でたたずんでいたが
私の内なる桜が満開になって笑った
※ソメイヨシノは種子では増えない (ソメイヨシノが生える種は現在存在しない)
各地にある樹は、全て人の手で接木や挿し木などをして増やされたものであり
全てのソメイヨシノは元をたどれば同一の一本に繋がる
ソメイヨシノの寿命は60年といわれている