「発注やる方へ この時期○○の○○の方がパッケージが変わるけどJANコードが同じ商品が出てくるそうなのですがパッケージが違うだけなのでやる時はJANコードを見てやるようにしてくださいとの事なのでお願いします」
これは、私が今日仕事場で発見した申し送りのメモである。書いたのは夜間バイトの大学生A君。字の汚さにも驚かされたが、なによりもこの文章の奇妙さには唖然とさせられた。で、これはいいサンプルだと思い、さっそく家に持ってかえってきた。
むろんこれはメモにすぎないし、A君にしても、その気になればもっとまともな文章が書ける可能性は大いにある。あるいは、それとは違って、A君が特別な文章感覚を持っているという可能性もありうるだろう。だが、私の見知っているかぎりでは、この程度の文章しか書けないひとはけっしてすくなくないのである。一応確認しておくと、私はお花畑に住んでいるわけではなく、ごくごく平凡な小市民の一人にすぎない。
となれば当然、私も非ピリン系「日本語が危ういと思う訳」(
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=182654&filter=cat&from=listdoc.php%3Fstart%3D0%26cat%3D5)にいちおうの共感を示さないわけにはいかない。
もちろん、これにもいろいろの賛否がある。
コメント欄で田柄氏は、「基本的に、日本語を扱う上で『正しい』とか言えちゃう奴は馬鹿かペテン師かの二択ですね」としているが、私は、ある「正しさ」が普遍的真理でないからといってその「正しさ」を認めない奴もまた馬鹿かペテン師の二択であることを確認し、かつまた、田柄氏がみずから馬鹿とペテン師を一人二役で演じているのではないかと疑いつつ(たとえば田柄氏の述べる文法の変移の事情はかなりいい加減なものだと思われる)、「文法間違い肯定派」(と誤解を恐れず乱暴にまとめてしまうが)のひとたちが、このようにみな一様にちゃんと読ませる文章を書くという事実をとても興味深く思う。私はこういったひとたちが読書家で、一般にくらべて文学的素養の高いひとたちであると推測する。そして私はこの推測についてはかなりの自信を持っている。
田柄氏が言うには「真面目にブンガクやった人ほど、『国語』に唾を吐く国が日本です」とのことだが、それが日本固有の現象であるかどうかは怪しいとしても、いま述べた私の推測をいくらか裏づけてくれるように思われる。
私なんかは、ならば、「国語」に唾を吐くのは、真面目にブンガクやったひとたちの間だけの共通了解にしておけばいいのに、と思う。言うまでもなく、世の中の人がみな真面目にブンガクするわけではないし、一般的な教養としても文学的な知識などすでに求められていない。こういったことをわきまえておかないとひとは容易にliteral mindに陥ってしまう。
literal mindの意味はとりあえず、そうなってしまっては、田柄氏のように「いい年こいて国語引き摺るのはやめて、みんなで楽しくブンガクしようぜ」などとわけのわからないことを臆面もなく口走るようになってしまうのである。
いや、私は、いい年こいてブンガクするのを悪いことだと言いたいわけではない。それは本人の自由だし、私個人としてはそういったひとたちを好ましくさえ思うのである。ただ、私はA君のように大学生にもなって国語がつたないようでは、まわりも困惑するだろうし、本人にとってもマイナスになるのではないかと思うのだ。
A君のメモは何となくではあるが一応意味が通じているので、実際の業務に支障をきたすことはなかった。しかし、これも場合によってはどうであったか分からない、非常に危ういものである。
だが、それよりも私がここで問いかけたいのは、率直に言ってこれが「言葉の豊かさ」に由来するものなのか、ということである。私はむしろこれは「言葉の貧しさ」の結果ではないかと思うのだが、如何だろう。
それでもなおA君のメモを積極的に肯定するひともいるかもしれない。私は、それがただの不親切をつぎはぎの知識でつくろったようなものでなければいいと思う。
つまり、もっと純粋に文学的興味からA君のメモにアプローチすることもできるわけだ。もっとも私は仕事をしていたわけで、けっしてブンガクしていたわけでも、するつもりでもなかったのだが。
ともあれ、私はそういった鑑賞態度にも何かある不均衡な関係を見出してしまうのである。これはたとえばアウトサイダー・アートやアール・ブリュット、またはスカム・ミュージックなどの受容のされ方を見ていても感じるときがある。つまり鑑賞者の方は学識豊かで、その学識の高さがかれらを鑑賞者にする。こういった不均衡はスノビズムの侵入を容易にしてしまう。その一方で、シャッグスのメンバーはハーマンズ・ハーミッツのファンだったというではないか。(ついでに述べておくと、私はシャッグスの大ファンである)
私はかなりはやい段階で学業生活から脱落してしまったので、こういったことに関する教育については、自身の経験がないためか、じつはあまり思うところがない。それでも「せめててにをはとか尊敬語謙譲語くらいは身につけておいて損はない」という非ピリン系の意見はもっともなものだと思う。仕事の申し送りもまともに書けない詩人よりは、詩心のないまともな社会人の方を私は好む。いや、そもそも前者のような人間は、かなり稀な存在ではないかと思うのだが、如何だろう。