文法についていろいろと投稿されている。
それらについて触れてゆく前に、私は、それが文法上の誤りであろうと、または公序良俗に反するものであろうと、どんなかたちであれ、言葉の使用を禁じてはならない、ということをまず確認したいと思う。
もっとも、それを踏まえたうえで、私は言葉の乱れを危惧する態度はとても大切なものだとおもう。すくなくとも、みずからの言葉の乱れを正当化するだけの情熱を私は持ち合わせていない。
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その点、RANRARARAN「短歌と文法、詩と文法」(
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=182290&filter=cat&from=listdoc.php%3Fstart%3D0%26cat%3D5)は、言葉の乱れのなかにも、ある積極的な意義を見出している。
しかし、これだけだと、RANRARARAN氏の主張はかなり怪しげなものに思われてしまう。
RANRARARAN氏は正岡子規の活躍を論拠に、「調べ」が「定型短詩の生命」であるという立場から、現代性を帯びるためには文法的真実を廃することも辞さないとしている。
まず一読して私が疑問に思うのは、自作を挙げて、「その人が少なくとも一首の『調べ』に関しては、頓着がないことを示しているではないか」うんぬんという箇所で、そこでさっそく挙げられた二首を読み比べてみると、何のことはない、RANRARARAN氏のいう「調べ」とは、けっきょく五七五七七を墨守しているだけであって、それによって「その人が少なくとも一首の『調べ』に関しては、頓着がないことを示している」のであってみれば、かえってRANRARARAN氏の「調べ」における「現代性」がずいぶんと心細いものであるように思われてくる。
この点に関して、「短歌の音楽性と政治性 山田氏に応えて」(
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=182565&filter=cat&from=listdoc.php%3Fstart%3D0%26cat%3D5)では、「それは、五、七、五、七、七、のリズムだけではない」として「現在の『わたし』が現在の『社会』で生きる以上、さまざまに複雑な音楽(リズム)が必要であり、破調こそなければ、現代の歌は成立しない、とまで考えている」と、自分の立場をより明確にしている。が、やはりここでも「現代」が何であるかは不透明なままである。あるいは、それは説明できるものではなくて、あくまで感得する以外すべのないものであるのかもしれない。
もうひとつ、RANRARARAN氏の投稿で気になるのは、冒頭で塚本邦雄、寺山修司、春日井建の作品をあげて、文法上の正当性を確保しようとしているところである。私はこの三人が「現代」的であるかどうかは知らない。いずれにしろ、すでに評価の安定したひとたちであることにちがいはない。ようするに、私が言いたいのは、体系化された文法に依拠することが権威主義であるならば、古典的な大作家を例に持ち出してくるのも、同様に権威主義であるということだ。また、その文法体系が流動的かつ限定的だと指摘するのを批判の根拠にすることも、けっきょくは同じ権威主義の威光を借りているにすぎないと思う。
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もっとも、私も日本が流動的かどうかを実証するだけの知識を持ち合わせていない。
睡蓮「文法に関する個人的かつ不完全な覚書」(
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=181371&filter=usr&from=listdoc.php%3Fstart%3D0%26hid%3D6865)では、日本語という個別性を捨象して、文法一般を考察することを試みている。これによれば、文法が変化するのは「1.1」で説明されているように、「その文の統語上の構造がこれまでの経験則に完全には適合しないにも関わらず直観的に把握されうる」からということになる。
私は「個人的かつ不完全な覚書」を個人的で不完全だといって非難するつもりはないが、それでもこれは少し不完全であるように思う。むろん、この文章は体系化された記述法をとっているので、ある意味では自足していて、そこが「個人的」である所以なのだろうが、それについてはとかく言ってみてもはじまらないだろう。
たとえば、「1」に「自らの経験と知識にもとづきつつ直観によって把握」とあるが、この「経験」や「知識」や「直観」を支えるものが何であるのかがまったく不明である。それに「一種の経験則」といっても、私たちの認識はすべて経験に則ったもののはずである。これを逆から言えば、認識能力があるからこそ私たちはそれを経験できるのである。
はっきり言ってしまえば、ここで言われている「文法」というのは、すでに明文化された個別性を帯びたものを指しているのでしかないと思う。
私は「私たちは文法規則を知ることができない」というところからはじめる方がもっと包括的な考察へのきっかけになるように思う。したがって、私たちは規則に従うことも規則に反することもできない。ここでいう「規則」とは社会的なものであって、つまり、私たちが社会に受け入れられたとき私たちは規則に従っているのであり、社会に受け入れられないとき私たちは規則に反している。しかし、私たちはその規則が何であるかはついに理解できない。たしかこういったことはヴィトゲンシュタインもどこかで書いていたように思う。
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渡邉建志氏は「文法についての殴り書き」(
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=181308&from=listdoc.php%3Fstart%3D0%26hid%3D819)のなかで、「規範文法」について、「その日本語で暮らしている日本人たちに向けて発せられる批判の根拠にはなりえないんだがなあ」としている。
孤蓬氏があるところで、「私のコメントは、日本語の現状―――時の宰相が『踏襲』を『ふしゅう』と読むような日本語の現状に対する、非カながらのプロテストである」と述べているが、渡邊氏の論を素直に読めば、渡邊氏はこういった日本語の現状は肯定することはできても非難することはできない。
日本人はそこで生活している日本の文化から肯定されることはあっても、批判されることはないという渡邊氏の論は、見方によっては倒錯したナショナリズムであって、けっきょくは日本の文化を自壊させることになるのではないかと思う。
日本語の領土は広大である。私は日本に暮らしているが、私の行動範囲はそれに比べてせまい。同じく、私は日本語で暮らしているが、私の暮らしている日本語は、日本語のなかのごく一部にすぎない。言葉は万人のために存在するのであってみれば、規範化された体系とまったくの個人の経験則では、どちらがより広汎な正当性をもつかは明らかである。ジャーゴンで充足できるとしたら、それはかれの視野が狭窄だからではないのだろうか。
といっても、私もRANRARARAN氏と同じく「万人の論理で個人を縛る」ことを憂うものである。ただ「その日本語で暮らしている日本人たちに向けて発せられる批判の根拠にはなりえないんだがなあ」という批判の根拠が薄弱であることに間違いはないと思う。「万人の論理で個人を縛る」ことを憂うからといって、それがすなわち、個人の恣意で万人の論理を破っていいということにはならない。
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言葉の乱れは、ある程度の教養を積めば、おのずと減少してゆくものであると思う。教養がないから、自分の誤謬があたかも内的な欲求であるかのように錯誤してしまうのではないか。幅広い表現法を体得していれば、初歩的な文法の間違いなどそもそも想起すらしないかもしれない。それをあたかもみずからの意図的な選択であると抗弁するのは、もしかしたら、自分で自分に裏切られた結果であるかもしれないのである。
私は冒頭で、どのような言葉の使用も禁止されてはならない、ということを確認した。で、なぜ私がそのように思うかといえば、私は「個人」であることの絶対性をつよく確信しているからである。
しかし、「個人」とは本来的に相対的な存在であり、そのような自己絶対化はかならずどこかで挫折してしまう。
だが、私は同時に、芸術の存在とその自明性を疑わない。そして、それによって「個人」の絶対性への道はつねに確保されているのである。
「芸術の存在とその自明性を疑わない」という私の認識を、ひとは甘いと笑うかもしれない。しかし、その一方で私はいつでも芸術を捨てるだけの用意はしているつもりなのである。