永遠に帰するポエジー 〜蛾兆ボルカ「はちみつぶた」について〜
白井明大
〈mixi日記より。2006年のポエケットの時のことです〉
そして会場に到着。
まだ開店前だったのですが、蛾兆ボルカさんの詩誌ロゼッタをまずはゲット。今回の特集は「祝祭」です。
ボルカさんの詩「はちみつぶた」があまりに素敵でした。寓話になぞらえて寓詩というものがあるとして、そこから、手にとりやすい寓意というものをていねいに取り除いて不思議な情景だけを表出させたもの、そして、ある観念を沈澱させたもの、がこの詩のことばから見てとれます。
もっとも受け取りたい、この詩の内奥のすがたは、永遠である とぼくは読みました。すきな詩です。
具体的にすこし書きます。
第二連から第六連まで。父の《今夜は何が食べたいですか?》という質問に四歳の息子が《はちみつぶたがたべたいです》と答える部分で、息子のカタコトの言葉から幼さを取り払い、父が翻訳し直した言葉で返答は書かれる。たとえばこう。
デザートは
摘みたてのブルーベリーを乗せた
ホットケーキがいいと思います
全部食べたあと、
ロウソクが残っていたら
絵本を読んで下さい》
「それが私の幸福です」
って意味の事を
カタコトで
(第四連途中から第六連まで引用)
父と息子の会話において、息子のパーソナリティを純粋にすくいとるこの箇所で、進行する時間の流れの外に、詩の流れが抜け出る効果が生まれている。
以後、時間の流れから抜け出た詩の流れは、最終連ではちみつぶたが現出するに及んで第二の効果を放つ。以下、最終の二連を引用。
そして私は見たのだった
はちみつでできた
透明のぶたを
子供たちが
歓声を上げながら
追いかけていくのを
夕飯のおかずとして話題にのぼっていた「はちみつぶた」は、夕方の公園に現れることになるが、幻想性より、子どもの神性より、時間の流れから外れた場所で起きる「おかず」→「幻獣」という、はちみつぶたの実体化を支えるものが上記した「時間の流れから抜け出た詩の流れ」であろうという点に着目したい。
時間の外における幻想は、単なる幻想ではなく、時間外=四次元との交流を意味しうる。四次元での幻獣との邂逅をかなえたものは、父が息子と時間外で繋がったことによる。つまり、四次元に踏み入り、はちみつぶたを呼び寄せたのは、父と息子との、時間の流れの外にはみ出る繋がりである、ということだ。
結論すれば、こうした繋がりを持てたとき、人の関係性は、時間を超越した場所で自在であるというポエジーを、この詩は呈示していると解釈できる。この「時間を超越した場所で自在である」というポエジーとは、永遠に帰するポエジーだと考える。
こうした点から、この詩の内奥のすがたが永遠である、と読みました。
*
(とまず書いたのですが、「進行する時間の流れの外に、詩の流れが抜け出る効果が」なぜ「生まれている」のかについて、説明不足と思われ、以下に追補が続きます)
*
「はちみつぶた」を現出させる最終連の展開は、さほどめずらしい飛躍ではないのかもしれない。ではこの連のイメージの美しさは何なのか。それを支えるのは、第二連から第六連ではないかと考えた。
第二連から第七連までを引用する。
《はちみつぶたがたべたいです》
と、息子は答える。
《豚肉を煮て蜂蜜を、トリーリ、
トリーリって入れた、アレです》
なるほどね、
と、私が言うと、息子は続ける
《前菜は、花豆のサラダがいいです
花の模様がついた、おいらんインゲンと水菜を
リンゴ酢と岩塩で和えたやつです
ご飯は炊き立てのものを
冷ましてください
デザートは
摘みたてのブルーベリーを乗せた
ホットケーキがいいと思います
全部食べたあと、
ロウソクが残っていたら
絵本を読んで下さい》
「それが私の幸福です」
って意味の事を
カタコトで
なるほどね。
と、私は言う
父によって、息子の言葉(カタコト語)からエッセンスが抽出され、翻訳された《》および「」内の言葉(大人語)として詩行に表わされること。これをどう解釈するか。子どもから「幼さ」を取り去った詩行の言葉をみると、作者は「子どもも大人同様の考えを持っており、ただ言葉がカタコトなだけだ」という認識の上に立っていると捉えられる。しかしそれだけではないだろう。《》と「」という二種類のカッコを使い分けるのは、子どもが持つ大人同様の考えを、一次変換的に翻訳し直しているだけではないことがうかがえる。子どもの持つ考えをすくいとる作者の筆は、考えの質的差異に敏感に反応している。第五連の「それが私の幸福です」という部分で表現されるのは、この息子固有のパーソナリティの、ある地点への到達だ。その到達までを父=話者が見つめ得たからこそ、《》内の「カタコト語」→「大人語」翻訳とは別個に、「」で括られた第五連に辿りついたといえる。また、この第五連のまなざしの確かさを支持するのは、第七連の「なるほどね。/と、私は言う。」だ。聞き手としてのあいづちであるのは第三連と変わりないが、「なるほどね。」にはより多くの含みがある。この第七連の二行は、息子の到達を受け取ったことの証として、第六連までを受けて置かれている。
では、第五連が、息子のパーソナリティの到達を確かめる詩行だとして、なぜ二人の関係性が、時間の流れの外にはみ出るのか。
一つには、「カタコト語」→「大人語」翻訳の効果としてだが、それは父=話者のまなざしによるものではない。あくまで詩法としての効果にとどまる。どんなまなざしかに関係なく、子どものカタコト語を大人語に置き換えることで、子どもが身を置く時間の流れ(=カタコト語的世界)から子どもを離す効果は生まれる。たとえば、《まんま》というカタコト語を、《ごはんがたべたいです》という大人語に置き換えるなど典型だろう。
この詩では、それだけではないと思える。二つ目として、詩が一貫して父=話者の視線により語られること、それが上記のような、子どもの心性の質的差異に敏感に反応するものであることから、つまり語りの精緻さから、イメージを高らかに飛躍させ、なだらかに着地させる実直かつ着実な効果を生んでいる点をふまえたい。第二連から第六連までの、まなざしの丁寧さ、精緻さ、敏感さゆえに、息子はカタコト語的世界から、父は常識的世界から、それぞれ離脱したときに、その離脱が高みへの移行を可能にするのである。
息子固有のパーソナリティの、ある地点への到達を見つめ得た父=話者のまなざしがあるがゆえに、その話者の視線のなかで、時間の流れからの離脱は、「はちみつぶた」現出という高みへの移行を可能にしているのである。
この第二連から第六連までの詩行の確かさが、最終連の美しさを支えているのだと考える。
単に最終連のイメージが、永遠に帰する幻想的イメージとして美しいのではなく、人のまなざしによって永遠への通路が開かれ、「はちみつぶた」の現出という像を結ぶことが美しいのではないか。
この詩におけるたかまりの頂点は、最終連にある以上に、第五連にあるのかもしれない。