教育について
パンの愛人

 渡邉建志「教育レイプの構造―相手の声に耳を澄ますこと」(http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=181866&from=listdoc.php%3Fstart%3D0%26cat%3D5)は、教育におけるある種の暴力性を問題にしていて、興味を持って読むことができた。体罰などを一切許さない、現在の社会風潮から考えてみても、渡邊氏の論旨がうけいれられる余地はかなりおおきいと思われる。
 私は渡邊氏が良識的で真面目な人柄であることは疑わないが、しかし、正直に言って、その人柄が教育者向きではないように思われた。

 そもそも渡邊氏のいう「教育レイプ」とは、かなり特異な状況論のひとつであって、とても一般に応用できるものではない。なにより、状況を「教育レイプ」と名づけ、双方を被害者、加害者に二分することによって、肝心の教育の意義そのものが隠蔽されてしまう恐れがある。言うまでもないことだが、たとえかれが「教育レイプ」の「被害者」であろうと、それによってかれの無知や誤謬が保護されるわけではない。

 それに「教えるとき、相手の内部の論理の筋を追わないと、相手は変わらない」というもっともらしい意見も、それが実際の現場で通用するものであるのか、また、それによってどれだけの成果が期待できるのか、それがもっともらしい分だけ、疑わしいように思う。のみならず、渡邊氏は「相手が、『わからない、でもこれがわかりたい』という顕在的および潜在的要求を抱えていること」が教育における「最低限必要な条件」だとしているが、これもまた現実的であるようには思われない。
 まず、「顕在的および潜在的要求」というのがひどく曖昧であるし、これがたとえば一般的な教養や初歩的な学習、またはしつけや道徳教育といったものまで含めて考えた場合、かなり異常な主張であることは間違いないように思う。へたをすると、そのような「顕在的および潜在的要求」もまた教育の産物であるかもしれないのである。同時に、渡邊氏のいうところの「理性ある人間」という存在も、やはりなにがしかの教育の結果であるかもしれない。あらゆる人間が生得的に論理的な思考能力を持っているかどうかは、おおいに疑問であると思う。だとすれば、渡邊氏の論旨を真に受けると、そのために教育の契機が見失われてしまう可能性がけっしてないとは言えないのである。

 また、渡邊氏の主張は、相手の感情的、生理的な言動にたいしてはまったくの無力である。渡邊氏は「相手の理性の中での論理的帰結として、相手はその『間違い』に至っているのである」と言うが、私たちの振舞いがつねにそのように論理的なものであるとはかぎらない。それは、環境からうけた暗示に由来するものであるかもしれないし、ただの習慣の結果であるかもしれない。精神分析風に幼児期の経験にその原因を求めることも可能だろう。いずれにしろ、そのような先入見をみずから是正したいという欲求が、私たちの間にそんなに都合よくあらわれてくるものだろうか。

 最近、日本にも格差社会が到来するといったような話をよく聞くが、それには教育の機会の不平等という問題も孕まれている。渡邊氏の論旨は、その不平等を結果として肯定することになりはしないか。学ぶ意志のない人間にたいして、たとえそれが社会的な義務であろうと、教育をほどこすことは、当人の理性を尊重していないという理由で、許されない行為になるのだろうか?




 渡邊氏は「わたしにとって正しいことと、相手にとって正しいことは、ちがう。言い換えれば、100パーセント正しいことは、本に書いてあるから教える必要がない」という。いくら数年前から出版業者の不況が噂されているとはいえ、日本は世界と比較してみても活字のあふれた国である。しかし、それでもなお、なにが100パーセント正しいことであるか、いっこうにコンセンサスが得られないのであってみれば、これは皮肉な現象であるとしか言いようがない。

 といっても、私はけっして皮肉が言いたいわけではなくて、ここでは教育における正しさとは何かを考えてみたいのである。

 渡邊氏の論では、教育の現場に登場するのは二人の人物、つまり教える側の人間と教えられる側の人間である。こういった抽象化された二人の人間による相対的な関係の空間においては、どちらが正しくどちらが間違っているかはついに決定することができない。これは教師と生徒だけにかぎらず、医者と患者、看守と受刑者などでも同様の事態が起こりうる。
 絶対性とは非文脈性のことである。それは、どのような意味においても対立するものが存在しない。したがって、それを踏まえたうえで、「教育において絶対に正しいものがない」というのであれば、それは私にも充分うなずける意見である。

 しかし、ここで奇妙な事態が起こる。渡邊氏は「教育レイプ」における加害者(教える側)と被害者(教わる側)という図式をたて、被害者の救助に熱心であるが、ここまでくればわかるとおり、そういったの図式もまた容易に反転しうるはずであり、しかし、その点について、渡邊氏はどういうわけか平然と看過しているように見えるのである。
 たとえばつぎの箇所、
 
彼/彼女は「私が教えていることは正しいし、私が取っている行動も世の中の教養を上げるために役立っている」と、自分正当化をする。そしてその正当化で思考停止してしまう。思考停止してしまうから、自分がとった『教育行為』が、相手にとっては突然襲い掛かられた言葉の暴力に過ぎないことにまで、思いが至らない。

 「教育行為」がかれにとって「言葉の暴力に過ぎない」のはなぜだろう? それは、もしかしたら、かれの思考が停止しているからかもしれないではないか。つまり、「思考停止してしまうから、相手のとった『教育行為』が、自分にとっては突然襲い掛けられた言葉の暴力に過ぎないように」感じられるのかもしれないのである。

 そうであれば、「教える、ということは、簡単にひとを傲慢にする」のと同時に「教わる、ということは、簡単にひとを傲慢にする」ということになる。

 話が脇にそれたが、私は教育における正しさについて考えているのだった。「教育において絶対に正しいものがない」ことを認めたうえで、では、一体なにによってわれわれは正常、異常を見極めることができるのか?

 まず第一に考えられるのは、それをもっとひろいパースペクティブで眺めてみることである。つまり、先に登場した二人をある共同体の空間のなかに置き直すことである。それによって、どちらがより共同性を帯びているかで、正常、異常を判断する。それで不十分ならば、さらにその共同体をそれより大きな共同体の空間のなかに置き直す。この手続きをくり返すことによって、最初の二人の位置関係は変化、変質してくるはずであって、この手続きは、私たちの現実の空間が有限であるかぎり、かならずどこかで終りがくる。そして、それが有限空間であるのなら、中心点もまた存在する。その中心点を判断の基準にすればいいのである。
 しかし、こういったプラグマティックな方法論もどこまで有効的であるかは怪しく思われる。有限空間といっても、かならずしも中心点があるとはかぎらないし、なにより理屈が先行しすぎていてあまり実際的ではないかもしれない。

 第二には、もっと直裁に、正常、異常を一種の政治性として考えてみることである。とくに道徳的な思考は、超越的な価値によって生のありようをとらえようとする。それはいわば「体制」であり、「審判」、「禁止」、「服従」、「強制」といった、ネガティブな措辞によって概念づけることができる。
 たとえば渡邊氏はファシズムの例を挙げているが、ファシズムが悪であるのは、窮極的には個人の自由を圧殺するからだとしか言いようがないと私は思う。では、なぜ個人の自由の圧殺が悪であるのかといえば、それはけっして論理的な手続きによって答えられるものではないと思う。私はある政治を批判するのに、べつの政治を根拠にするのを、ことさらにやましいことだとは思わない。人によっては、「政治」とつくだけで、まるでそれが絶対悪であるかのような反応を示すようだが、教育はけっして専門知識だけを取り扱うのではないし、むろん趣味や余技やファッションの問題ではないのである。

 ついでに、渡邊氏の例では、教える側がファシストということになっているが、その逆に、教わる側がファシストの場合はどうであろう。
 ここで重要になるのは、渡邊氏が金言として挙げている「人を変えようとするときには、まず自分が変わらなくてはならない」というもので、ここで言われる「変わる」というのが、いったいどのような性質であるのかが、まずもって問われることになる。
 それは、自分の反ファシズムを相手のファシズムに迎合させることだろうか? それとも一種の弁証法的な発展を意味しているのだろうか? もしくはただ単に応対の物腰を変えるといったような表層的な変化をさしているにすぎないのだろうか? いや、実際、そのどれであろうとかまわない。国家形態としてのファシズムは、ニ十世紀でいちおうの敗北を喫したが、それはけっして渡邊氏のような人たちの尽力によるのではないということを、私は確認しておきたいのである。

 そのほかにも、第三、第四、第五と名目はいくらでもあるだろう。じっさい、こういったことはいくらでも自分の都合に合わせて捏造できるような気がしないでもない。



 以上、私の投稿のなかのどこかに、ひどい論理の過誤が含まれているとしたら、それはおそらく、私が「教育」と縁遠いまま成長してきてしまったためだろう。


散文(批評随筆小説等) 教育について Copyright パンの愛人 2009-03-30 22:31:00
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