映画日記、ただし日付はてきとう3
渡邉建志

2008/11/30 22:30
ロンドン。外は雨が降っている。僕はフラットの玄関の階段に座って、隣のパブの無線LANを拾っている。僕はひとりで、夜がひろがる。30分前、久しぶりにNがメッセンジャーに入ってきた。本当に久しぶりに。トレヴィーゾもまた、雨が降っているそうだった。
2000年。映画における記号論、といったような授業を受けた。芥川賞を取ったばかりの松浦寿輝さんの。ヒッチコックにおけるさまざまな記号。僕は映画を見たことがなかった。
映画は、映画館で見てほしい。それが最初の授業のメッセージだった。暗闇の部屋の中、たくさんの人が同じ方向を向いて、息を潜めて同じ空気を共有している、その後ろから光がスクリーンへ射している。この構造は、リュミエール兄弟が100年前にパリのグラン・カフェ地階で試写会を初めて行ったときから、変わっていない。この中でこそ、映画を見てほしい。と。映画は映画館で、というこの教訓は、何の理由付けもされないまま僕の前に提示されたので、僕はまったく納得ができなかった。後になって痛いほどよくわかったのだけれど。
今の考え。スクリーンとテレビ画面の違い。1.大きさ。注視するものを選択できること。主体的体験。2.反射光と直接光の違い。テレビの直接光を明るい部屋の中で見るときに、微妙な色の差や光量の差を知覚することは難しい。微かな反射光を映画館の暗闇の中で見るとき、僕らはそれらの変化に敏感になる。その敏感なところをきちんと使ってくれる映画がいい。だから、芸術的な映画ほど、(映画館に行かなくても)家でプロジェクタで壁やスクリーン(1万円ほどで買える)に映すだけでずいぶん違う。
スクリーン以外の要素。映画を人と「共有する」ということ。渋谷のイメージフォーラムでタルコフスキー映画祭があったときに、当時恋人だったNと一緒に、全作品を見た。それからいつも感想を話しこんだ。恋人とそんなことができたなんて僕は最高に幸せな人生を送ったんじゃないか。本当にそう思う。

2008/12/1 19:30
たぶん、映画とは、ぼんやりしていること。みんないっしょに美しくぼけること。映画館とは、たぶん、境界のあいまいな人たちの教会のこと。
境界があいまいな女の子がいた。いい香りだけ覚えている。彼女をおおっていた空気の凛とした感じと。南禅寺。疎水。青い空。暑さ。17。白い服。やわらかさ。あいまいな夢のように、彼女は僕の脳のある部分を占めていて、その夢はずっと醒めないでいる。
映画日記、ただし日付はてきとう、と題打ってきたけど、もちろん日付は正確であって、あの頃は映画の日々だった。「映画の日々」というのは、確かにある。そして去って行く。僕の映画の日々が去ったころに、最果タヒさんから同人誌「アンプル」への誘いが来た。僕は書き溜めていた映画日記をまとめて出すことにした。そもそも僕は映画のことなんて何も知らない。何も偉そうに語れない。でもある種の映画に接したあと、僕が前後不覚に陥ったかという精神/身体反応を書いて、「そこまで言うなら見てやるかなあ」と思ってもらえればそれだけでいいと思った。その種の映画は必ずしも僕の同世代に広く受け入れられているわけではないし、それが悲しかったので。大体は蓮實重彦さんが推していた映画なんだけど。その精神/身体反応がアンプル1、2で映画日記1、2として載せたものだ。
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=136942
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=168092

今回は文庫本ということで、マイ・ベスト20・映画体験について。見た後で、恋に落ちたみたいに1週間ぐらいその映画のことしか考えられなかったような映画たちと、その監督の他作品。

1.ビクトル・エリセ「エル・スール」(1983/スペイン)、およびエリセ他作品(「ミツバチのささやき」「マルメロの陽光」「ライフライン」)
寡作の人、ビクトル・エリセ。10年に一作のペース。(「映画を撮っていないときでも、私は映画を撮っているのだ」といったのは彼ではなかったか。)すべて、静謐な作品たち。この映画のすごいところは、芸術映画でありながら同時にエンターテインメントでもあるというところだと思う。オメロ・アントヌッティは僕にどんなに深刻な悩みを感じ入らせ、どれだけ僕はその夜に悪夢を見せられたか。それは、「エル・スール」における演出と演技が、寡黙であり、その寡黙さのなかから彼らの悩み深さをわれわれのほうから主体的に想像せざるを得ない状況に置かれるからだ。ベルイマンの冬を舞台にした神の不在シリーズの演技・演出の過剰と比べられよ。映画日記1参照。/「ミツバチのささやき」。子役二人の演技の自然さ。特にアナ・トレントは演技していない。存在しかしていない。「エル・スール」のエストレリャ役二人もやっぱり「存在」だし、エリセ作品は、なにか大切なものを大袈裟な「演技」で潰さないように繊細に作られていると思う。こんな演技を引き出せるのは彼の天才的な人格ではないだろうか。第三作、第四作も存在の静謐さが貫かれている。(youtubeで"elice, lifeline"を検索のこと)

1.アレクサンドル・ソクーロフ「マザー、サン」(1997/ロシア)(あと、「日陽はしづかに発酵し…」)
「マザー、サン」は「エル・スール」と僕の中で永遠の一位。最果ての映画。この映画は好きな人と嫌いな人に思い切り別れると思う。そして僕は狂信的にこれ以上前衛的かつ美しい映画は二度と作られ得ないと叫ぶ。映画日記1参照。/「日陽はしづかに発酵し…」。淀川長治いわく「知らなかったら一度観てごらん窒息するよ、やらしいんだから。近ごろこれほど映画にどろどろと監督自身がよろめき、楽しみ、酔いしれた映画を見たことがない。ワン・カット、そのシーンが美術写真。ワン・カット、そのシーンの主演者のポーズそしてマスクが芸術写真。こうなるとアレクサンドル・ソクーロフ、この監督の名が(映画の目)という印象を深めて忘れられなく、こんな映画ばっかり撮っている狂人かと思った。」
蓮實重彦いわく「よほどのことがない限り滅多には口にしたくないのが「天才」だの「傑作」だのといった言葉だが、アレクサンドル・ソクーロフの「日陽は…」のためになら、ためらうことなくそれを使ってしまってもよい気がする。そう、断言してもよいが、ストルガツキー兄弟の小説「世界終末十億年前」を自由に翻案したソクーロフ監督の「日陽は…」は映画百年の歴史にまれにしか出現することのなかろう、紛れもない必見の傑作である!(略)「天才」ソクーロフが、その遭遇のもたらす甘美な戦慄をそっくりフィルムに定着させているという意味で、おそらく、生涯で一度しか撮ることのできない稀有の「傑作」と呼ぶほかはない映画なのである。」僕が100の言葉を重ねるよりも、この二人がこれだけ言うんだから十分だろう。でも、絶対にテレビモニタじゃなくてスクリーンで!ソクーロフはあと「精神の声」を絶対に見たい。

3.アンドレイ・タルコフスキー「鏡」(1975/ロシア)、およびタルコフスキー他作品(「アンドレイ・ルブリョフ」「ローラーとバイオリン」以外)
音の美しさ。水の落ちる音。木々のざわめき。すべてを聞き逃さないように静かな場所で音量を上げて見てください。できれば映画館。タルコフスキーについて音の面から、武満徹がすごくいいことを言っている(http://www.imageforum.co.jp/tarkovsky/tkmt.html)。「僕が映画を好きなのは、映画は音楽だ、と思っているからなんです。タルコフスキーの映画には音楽が少ない。これは一貫してるんだけど、それは彼の映画が音楽的だからなのであって、ことさら音楽が入る意味がないんだろうと思うんです。限りなく音楽というものに近づこうとしている映画だ。映画を通じて問題を追求している芸術家タイプの映画作家までが、音や音楽に対しては、かなり鈍感になっている。だから、そういう時代にタルコフスキーの音に対する感性は際立ってユニークでしたよね。」/「鏡」。タルコフスキー特有の強烈な光と影、外の緑の美しさ、火の激しさ、そして近くから聞こえる水音、すべてがすごい。なによりもラストの切り返しが本当に凄まじい。「鏡」には合計4つの時代が現れるのだが…ラストが。/「惑星ソラリス」。タルコフスキーはSFを撮りたかったのではないという。彼の撮りたいものを、SFという形で隠してしか、ソ連政府に映画を撮らせてもらえなかった。だから、SFという形式を超えられなかったという認識を持ったタルコフスキーはこれを失敗作とみなしている。だが、僕はきちんとSFを超えていると思う。詳しくは「二つのソラリスについて」という文章にまとめたので読んでくださるとうれしいです(http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=27931)。5回以上見て気づいたのだけれど、冒頭のシーンで主人公が持っている金属の弁当箱みたいなもの。彼は植物の種の採集をしていたみたい。その弁当箱を覚えていてください。/「ストーカー」。木のきしみや水の音、水の映像の美しさ。初めてタルコフスキーを面白いなあと思ったのはこの映画かもしれない。一回目から面白いと思った。モノクロからカラーに変わる瞬間、はっとするような緑。/「サクリファイス」。ラストの火事のシーン。素晴らしいタイミングで家の骨組みが崩れる瞬間、画面はさっと入れ替わり静かな海辺に。カモメが鳴き羊が鳴きスウェーデンの不思議な歌が遠くに聞こえ、子供が重そうに水を運んでいる。泣く。/「僕の村は戦場だった」。壮絶な美しさ。林をぐるぐる回転するカメラワーク。忘れられないラストシーン。/「ノスタルジア」。雨降る窓の外の緑色の美しさは、見るたびに心を打たれる。タルコフスキーの映画のなかでもこの映画がもっとも映像が美しい。「映像詩人」という形容は、この作品の彼のためにある。

4.トラン・アン・ユン「シクロ」 (1995/ベトナム)(あと、「青いパパイヤの香り」「夏至」)
映画日記2参照。もう神様みたいに好き。最新作は2010年に日本で撮る「ノルウェイの森」だそう。村上春樹もファンだったらしく、彼ならOKということだったらしいが、金を出しているのがフジテレビとからしく非常に心配。

5.キラ・ムラートワ「長い見送り」(1971/ウクライナ)
発狂的にお勧め。映画日記2参照。ハイパー前衛。音楽と映像のこれ以上ない幸せな結婚。

6.ヴィターリー・カネフスキー「動くな、死ね、蘇れ!」(1989/ロシア)
発狂的にお勧め。映画日記2参照。見ることを強要してくるすごい映画。金縛り。

7.エットーレ・スコラ「特別な一日」 (1977/イタリア)
映画日記2参照。ヴィットリオ・デ・シーカ「ひまわり」を見て泣いた人ならば(それは僕)、同じカップルで7年後に撮られたこの映画もぜひ。このソフィア・ローレンの美しさといったらない。決して若くないのに、美しい。存在がもうやたらとエロティックだ。それなのに!

8.イングマール・ベルイマン「夏の遊び」(1951/スウェーデン)(あと、「処女の泉」「ファニーとアレクサンデル」「仮面/ペルソナ」)
映画日記2参照。「ヒロインになるマイ=ブリット・ニルソンという女優がすごく可愛らしいんですよ、はつらつとしていて。その彼女が卒業した年の夏をすごしにゆくのが海なんだけど、(略)ところどころにこう空が映るんですね。(略)それでぼくは、これはスウェーデンにいかなければいけないと思って、馬鹿みたくいったんですね、その映画をパリで観てすぐ(笑)」蓮實重彦「映画千夜一夜」
これには山田宏一さんも頷いて、自分も行った、と言う。それほどまでに美しい。空気が、空気がきらきらしてるよ!信じられないよ!笑っちゃうほどきれい。こんな抜けるような夏を映画でもどこでも見たことがない。/「処女の泉」。後半の手に汗握る展開。ラストは絶句。これはブラヴォーを叫ばざるを得ない。/「ファニーとアレクサンデル」。え、本当に5時間11分も経ったの?/「仮面/ペルソナ」かっこよすぎ。映画日記2参照。

9.セルゲイ・パラジャーノフ「火の馬」(1964/ロシア)(あと「ざくろの色」「アシク・ケリブ」)
みずみずしくって鼻血だ。動きがめちゃくちゃ凄い。もはやなんでもあり。映画日記2参照。/「ざくろの色」。ぜひスクリーンで。前作とは正反対に極端に動きが抑制され、様式化された。ショットのつなぎで激動がある。動く紙芝居。次のショットが読めない。くりかえしのパターンであっても、つぎもう一度くるかくるかとドキドキする。人と見ることがお勧め。/「アシク・ケリブ」。前3作のいいところを全部まとめて出してきた、という雰囲気。「火の馬」のめちゃくちゃな動きと象徴、「ざくろの色」と「スラム砦」のページェント的映像、それらの混合。

10.グル・ダット「紙の花」 (1959/インド)(あと「渇き」)
インド映画のイメージを覆されろ。これは芸術だ。なのに娯楽映画として成立させなければならかなったグル・ダットの悲劇。なぜこんなにすごい映画が、同世代の若い人の手の届かないところで保管されているんだろう。どうしてレンタルビデオに回らないんだろう。不条理だ。この映画におけるワヒーダー・ラフマーンほど美しい女優はいない。/「渇き」。見た後で苦しかった、ああ、生きてくのつらいよなあ。美しいです。

11.別枠:佐々木昭一郎「四季・ユートピアノ」(1980/日本)(あと「紅い花」「夢の島少女」)(映画ではなくNHKのドラマ)
映画日記1参照。存在の女優(いや女優ですらない、)中尾幸世という一人の女性の、存在の異様な美しさはもう神がかってる。話し方が演技超えてる。普通に私たちが話す時、きちんと発音して話す人がどれだけいるだろう。言いよどんだり、語尾を早く処理したり、文法がめちゃくちゃだったり、そんな言葉ばかりを、僕らははなしている。それをそのまま自然に美しくやってしまう、いま隣にいるように。小さな声で速く滑らかに。彼女は常に微笑んでいる。「東洋のモナリザ」と呼んだ人がいた。モナリザよりもっと。/「紅い花」。炸裂する強烈なイメージ!つげ義春はこの映像化を誇りに思っていい。/「夢の島少女」。こんなエロティックなものを久しく見なかった。NHKが。高校三年生なのに。白い胸が息づいてる。その産毛のアップ。これはほとんど中尾幸世の前衛的PV。

12.ベルナルド・ベルトルッチ「革命前夜」(1964/イタリア)(あと「暗殺の森」「シャンドライの恋」)
映画日記2参照。アドリアーナ・アスティの愛らしさは犯罪。友人Nいわく女の子の眼から見てもこれはすごい。あまりの萌え視線に、僕らは巻き戻し・一時停止を繰り返した。そんなことは後にも先にもこの作品だけ。/「暗殺の森」の冴え方は異常。そこまでやるか!唖然。/「シャンドライの恋」は、イタリアという場所の美しさがあふれている。イタリア万歳。ラストシーンの解釈をいろいろ許す終わり方、あのロングショット。ああ!

13.水野晴朗「シベリア超特急5」(2004/日本) (5だけ(!)と強く強調)
映画日記1参照。クライマックスの棒読みという革命。しかも計算済み。

14.鈴木清順「ツィゴイネルワイゼン」(1980/日本)(あと「東京流れ者」)
不穏。画面のめちゃくちゃさ、やりたい放題。音もすごいです。馬鹿じゃないか。切り通しのシーンの音。いろいろ唐突でびっくりする。/「東京流れ者」。狂ったような形式美。唖然とする色のあまりの激しい変化。すごい。吹く。

15.キン・フー「大酔侠」(1966/香港)
戦いのシーンでのカット割りのものすごさと、その形式美。多数の敵を相手に一人で戦う美少女という原型。ワイヤーアクションを多用する最近の映画にはない、本当の動きのダイナミクス。キン・フー映画はもっと見なければ。でもキンフー寡作すぎ。

16.ハワード・ホークス「赤ちゃん教育」(1938/アメリカ)
映画日記2参照。現代に通用する(というか現代ですら前衛的)お笑い。スクリューボール・コメディをもっとたくさん見なければ。

17.ジャン・リュック・ゴダール「ゴダールのマリア」 (1984/フランス)(あと「はなればなれに」)
鬼門ゴダール。手に入るものは大体見たけれど、たいていわけがわからないままに終わるでも「ゴダールのマリア」。一回目だめだったが二回見て感動した。ミリアム・ルーセルの静かで優しい微笑み。マリアを演じることに本当にふさわしいのはミリアム・ルーセルしかいない。蓮實氏も彼女が世界で一番美しい女優だと言う。ヘアが痛々しく美しい。膨らんだおなか、月、バスケットボール。この映画は本当に、静かで、美しいです。(これ、本当にゴダールなのかなあ。)/「はなればなれに」。アンナ・カリーナが一番可憐なときに可憐に撮られた映画。スウィートでたまらない。疾走する彼女。川を渡る彼女。

18.ファイト・ヘルマー「ツバル」 (1999/ドイツ)(あと「ゲート・トゥ・ヘヴン」)
チュルパン・ハマートヴァがやばい。かわいさが度を越している。そんな彼女が全裸で金魚とプールで泳ぐシーンは美しすぎてもはや正視できない。/「ゲート・トゥ・ヘヴン」インド人とロシア人がドイツの空港で恋愛するお話。現代のメルヘン。ずっと地上にいるのだけれど、ずっと浮かんでいるかのような。空の上にいるような。これを見たら空港に行くたびに思い出すと思います。

19.エリック・ロメール「海辺のポーリーヌ」(1983/フランス)(あと「友だちの恋人」)
ロメールはただアマンダ・ラングレの小さすぎるビキニ姿をフィルムに固定したかっただけだろうと思う。それを享受できる僕らの幸せ。エロティックという形容とはちょっと違う。15歳という絶妙な年齢の健康な肌の美しさがフランスの避暑地で全方向に弾けている。はちきれんばかりの魅力。眩しすぎ!(表現ももどかしい。)ロメールも鬼門だけどこの映画と「友だちの恋人」の健康美は忘れられず。

20.ストローブ=ユイレ「アンナ・マグダレーナ・バッハの日記」(1968/ドイツ)(あと「シチリア!」「アンティゴネー」「あの彼らの出会い」)
音に対する覚悟。ストローブ=ユイレはマタイの序曲(8分ぐらい)をカットなしでfixのカメラで撮りきってしまう。そして、それがまったく退屈なシーンではないということ。その構図。レオンハルトの伸びやかな動きを見ているだけで楽しい。演奏している人間を映像で映すということに嫌悪感を抱いていたアドルノはこれを見たら何を言っただろうか。ストローブ=ユイレは不思議な構図で音楽家たちをとらえる。冒頭のレオンハルトは背後。背後から激しく動くチェンバロの指、思わず揺れる頭。/「シチリア!」。素人俳優の棒立ちっぷり。棒立ちで、なすすべなく見詰め合うこと5秒。その見詰め合いはなんだ。みんなその動けない硬直の中でそれぞれの持ち味を出し切っていて、もう変な役者ばっかり。ふだんからきっとあんな人たちなんだろう、と思わせた時点で、監督は成功している。/「アンティゴネー」。相変わらず素人俳優の真剣性、なにかが吹っ切れた演技が光る。怒りが直接怒り。大きな口を開いて一生懸命アンティゴネーがしゃべっている。それはいつも横顔で撮られている。その後ろにいつもどおり木の葉が揺れている。(スト=ユイはこの構図が多い。古代の誰かが話している。その後ろで木が揺れている)。遠景を撮るときにわざとしっかりと高速道路を映す(古代なのに)。/「あの彼らの出会い」。ストローブ=ユイレの眠い緑色。相変わらず森の中。なんともいえない不思議な幸せに包まれる。鳥の鳴き声が美しい。森の光も、ヴィットリーニ連作における暗さではなく、神の光の明るさがあって、私は画面の前で無になっていた。ユイレはいい作品を残して死んだと思う。例の素人演技も、いつものことながら、すばらしい。どうしてこうも生活観溢れるいい味の顔した人がたくさんイタリアにはいるのだろう。


散文(批評随筆小説等) 映画日記、ただし日付はてきとう3 Copyright 渡邉建志 2009-03-29 22:40:26
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