「『鳥』と『虫』とは手をとりあえるか(1)(2)」へのコメント
Giton

睡蓮さんの上記評論へのコメントとして書いたものですが、長くなったので、独立のトピを立てます。

 本論は、興味深く拝見しました。
 かかわりの具体的場面では、さまざまな視点・論理が交錯することと思われますし、一般的な解法というものはないと私も考えます。
 ところで、本論に関連して、運動者が「研究者・芸術家に期待する役割」というテーマで、研究者・作家それぞれ1名のかたを例に挙げて論じることを計画してみました。
 ところが、(1)このサイトには常識に欠けた(しかも自覚のない)コメンテーターが見られ、危険なコメントの消去を求めても決して応じない場合も考えられ、しかも(2)書き込まれたコメントをトピ主が消去できないため、第三者を危険に曝すコメントに対して(管理者も納得するような直接的誹謗でもない限り)対抗手段がないことを考え、断念致しました。
 そこで、以下では、結論のみを簡単に紹介します。
 作家・詩人・芸術家に対して、最も期待されるのは、やはり作品を創ることであり、研究者に対しては、資料を発掘し論文を発表することです。
 じつは、私どもが運動を始める30年ほど前に、一人の作家が、一枚の写真に関心を持ったのが、私どもの問題の始まりでした。
 彼は、30年間ただ一人で関係者を捜索し、口の重い人々からの聞き取りを、ノンフィクションとして細々と刊行し続けました。彼は、言葉の問題もあって現地(外国)とは連絡を取れませんでした。
 その後、現地で被害者の発掘が始まり、私たちも運動を始め、問題が世間に知られてからは、彼は公的発言を控えるようになり、マスコミの取材に対しても、慎重に発言されていました。しかし、私どもには、たいへん気さくに討論や資料の提供に応じてくれました。
 作家としての姿勢を貫かれているのが印象的でした。
 彼とは対照的に、後から私どもの運動に便乗して、やってきては、断りもなく資料を漁りとって引き揚げて行く迷惑な作家もいました。彼女の著書を、私たちは信用していません。
 そこで、私どもが研究者・芸術家に期待する特性は、ある意味での潔癖さと、運動に対する理解、自己の限界の自覚。また、研究者共通の長所として、筋の通った行動を挙げることができると思います。
 もちろん、運動に参加される研究者もいらっしゃいますが、その場面では、やはり運動者として行動しているのであり、研究者としての活動とは区別して理解しています。


散文(批評随筆小説等) 「『鳥』と『虫』とは手をとりあえるか(1)(2)」へのコメント Copyright Giton 2009-03-26 01:19:59
notebook Home 戻る