鳥の論理と虫の論理など(2)
Giton
3 (承前)
そこで、端的に言えば、現地取材をしている記者は、日本にいる翻訳者のように「一歩下が」って大所高所に立つことは困難だし、「一歩下が」った時点で、現地取材は不可能になる――すくなくとも、その記者がこれまでにしてきたような民間人に密着した取材はできなくなるのではないか、ということなのです。
さらに言えば、《闘える革命家は、必ずしも、平和をもたらす為政者ではない。》という問題があるように思うのです。フランス大革命の原動力となり貴族革命を民衆革命にまで深化させたジャコバン党が、政権を握った時に現出したのは恐怖政治でした。(ハマスがそうだと決めるわけではありませんが)民間人の停戦後の反応は、現象としてはヒステリックであったとしても、長い目で見れば、案外、民衆の鋭い感性の現れであるかもしれない。
また、もうひとつの問題として、局外者(=事態の結果に対して責任を負わない者、負いえない者)が、はたして、当事者に対して「説く」権原を持ちうるのかどうか?もし持ちうるとすれば、どんな場合に持ちうるのか?単に「客観的だ」というだけで、権原として十分なのか?これは、あまりにも大きな問題なので、これいじょう触れませんが、結論を言えば、私の答えは否定的です。
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4 外国人ないし局外者として国際問題に関わるということは、つねに悩ましい問題に逢着することであると思います。現地の民間人との距離が近ければ近いほど、悩ましさは倍加します。
私自身、中東ではありませんが、この15年ほど外国の民間の運動体に関わってきて、このことを嫌というほど感じました。15年前にいっしょに始めた仲間は、いまは、まったくバラバラですが、それは、「鳥の論理」と「虫の論理」の間のどのへんを選びとるかによって、それぞれの行く道が岐れてしまった結果であろうと思っています。
なお、私自身はといえば、長らく「虫の論理」によって行動してきたのですが、自分の心性と行動の解離が大きくなってしまった時点で、現地との密着した関係からは身を退いて現在に至っています。
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5 (3.23.追記)パレスチナ・プロパーについて言えば、問題はさらに複雑で難しいように感じられます。
ここは政治的な議論を控える場だと思うので最小限に述べますが、ネットの wiki 等を見ても、ハマスは二面性のある組織といわざるを得ないでしょう。PLOそのものが、もともとはそうした二面性を持っていたのですが、現在では(PLOの後進である)パレスチナ自治政府の主流は穏健化しているのに対し、ハマスは、民衆にとっても顕著に二面的なのではないかと思います。そうした情勢に対して、私は、「客観的な判断」ということが、いかに難しいかを感じるのです。
誤解を恐れずに言えば、「なぜ、これまでのようにハマスを支持しないのか?」と問うことは、「なぜ、君はインティファーダをしないのか?」(c.f.「なぜ君は特攻隊に入らないのか?」)と問うことにもなりかねない。それは、とうてい局外者の言えることではない、と私などは感じるのです。