むしろ現代のはらわたとして
大村 浩一

 グダグダ言いたくないので、とりあえず簡潔に言いたいコトのみ書く。
 イシダユーリと今村知晃のユニット「後ろ回し蹴り」の先日の朗読パフォーマ
ンスに関して、意味不明の批判がくり返されている。
 ある種の作品に対して理解できないというコトは誰でもあるので、その人の見
識の狭さを思えば仕方が無いと思うのだが、その人の文章の中に「エロを書くの
が昨今の流行のようだ」といった発言があるのが、引っかかった。

 昨今などではない。この表現の壁は20年も前に乗り越えられたものだ。
 そしてそれは流行ではなく、むしろ切実な社会の現実から現れてきたものだ。

 高度経済成長で物質的な豊かさが急速に広がるにつれて、それまでの詩の主題
の選択や表現方法では、現実に対するリアリティを維持できないという事態が出
現してきた。70年代に既に言われていた詩の煮詰まり状態というヤツだ。
 マジメに戦後世界の問題や、あるいは日常生活や文学の中の美を描いてみせて
も、それは過去の憧憬でしかない。一般には日常生活のテレビやマスメディアが
見せる多様な豊かさや享楽的なバカ騒ぎのほうが、親しみもあるし刺激的で面白
い。現実のほうが詩的想像力を追い越してしまったわけだ。

 ところがその一方で(こちらのほうがより重要だ)、肥大する経済マシーンの
中で現代人はより孤立させられ、消費世界に飲み込まれていった。雑に言えば、
詩に限らず、すべての人やモノが即物的にカネに換算され評価され、たちまち使
い捨てられる、という現実を受け入れざるを得なくなった。
 こうした社会の変化で、いちばんハゲシク(あるいはえげつなく)変化したの
が性に関する意識、あるいは問題だったように思う。かつてはタブーとして秘め
られていたものが自由になったは良いが、そこを男のケーザイにいいようにねじ
曲げられて、性の商品化といった事態を招いてしまった。

 女性や社会弱者の立場から見れば、現代のこういった仕組みが新たな、そして
個人では抗し難い抑圧としてのしかかることになった。教育では男女同権を言わ
れ現代人としての知性を与えられながら、だ。
 ひらべったく言えば「こころの問題」ということにもなるが、ともあれこのあ
たりの抑圧を何とか抉り出さなければ現代人の問題意識に届かない、という事態
に現代詩が直面した時に出現したのが、いわば「超」私小説的なラジカルな詩表
現だったように、私は思う。

 その現実を性表現の側から端的に抉り出してみせた詩人として、伊藤比呂美と
いう傑出した詩人が居る。
 イヤ今も居るのだが(笑)子育てエッセイなどで知られてからは、この詩人の
こういうラジカルな面は、ナゼだか語られなくなった。
 今日たまたま1985年の現代詩手帖・イェィツ特集を見たら、絶頂期の伊藤さん
の詩『いやさのさのさのさ』が載っていて、今読んでもやはり絶句した。彼女の
ラジカルさの一部だけでも何とかネットで見られないものかと検索かけてみたら、
佐藤幹夫さんの詩の評論ページに辿り着いた。
http://www5e.biglobe.ne.jp/~k-kiga/onnna2.htm

#あたしは便器か
#いつから
#知りたくは、なかったんだが
#疑ってしまった口に出して
#聞いてしまったあきらかにして
#しまわなければならなくなった
(伊藤比呂美詩集『テリトリー論』収録「きっと便器なんだろう」)

 一番センセーショナルな一節を出しておいて恐縮だが、彼女の詩を不快に思う
女性は案外少ないのでは、と思う。むしろ女性の立場として「よくぞここまで言
ってくれた」的な詩のほうが多いのでは。
 個人的にはサイバラ式(笑)の身体を張ったユーモアさえ感じる。80年代とは
こうした女性詩が分からない男性はバカ扱いされかねない凄まじい時代だった。
 現代詩がガチで難解でつまらないとか思ってるヒトは、ぜひ一度彼女の詩を手
に取ってみて欲しい。彼女の詩は劇薬で詩に癒しを求めるヒトには全く向かない
が、私にすれば毒にも薬にもならぬ詩よりもよっぽど現代と戦っている、存在価
値のある詩だと思う。

 余談になるが、同時代にはもっと端正ながら性表現を武器にした詩人として井
坂洋子がいる。荒川洋治に絶賛された女性詩人だ。またメンヘル系? では、現
代詩の中に始めてガンダムを取り上げちゃった榊原淳子が居る。
 現代詩が意味不明で難解だとか言うのは、キミが知らないだけだ。現代詩の中
心はそんなところからとっくの昔に外れている。それは田口犬男の出現が如実に
象徴している。…閑話休題。
 
 現代人の抑圧の問題は変わらない。近くは柴田千晶さんが詩で取り上げている
東電OL事件も(この事件は下って1997年だが)その一端であるし、藤井貞和さん
が描く援交少女も現代の象徴と言える。いや格差社会の出現で、この抑圧はいよ
いよ増すばかりだ。いっぽうで地球環境もワリを食わされている。
 このいや増す脅威の中で、一時は停滞していた女性詩が再び復活しようとして
いる。三角みづ紀さんの台頭と最果タヒさんの出現はその象徴と私には思える。
 イシダユーリさんもまた、世界と詩表現の両方の危機のなかから立ち上がった
気高い詩人だと私は思う。彼女のパフォーマンスに顔色ひとつ変えず応える今村
知晃さんもまたトンデモナイ、クールガイだ。


散文(批評随筆小説等) むしろ現代のはらわたとして Copyright 大村 浩一 2009-03-20 23:50:51
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