折り返しのある男
atsuchan69
男は、レミオロメンを知らなかった。いや、そればかりかサラ・バレリスもブランディーさえ知らなかったのである。しかしそれが彼の生活にあえて格別の影響を及ぼすということではなく、ただ美しい天使たちの歌声から遠く耳を塞いでいるだけの話という事実にすぎなかったのだ・・・・。そして男は、イタリアで作られた黒いモンクストラップのシューズを履き、細かな千鳥格子のカジュアルスーツをいくぶん粗野に着こなしていた。Vゾーンは、オフの日のお決まりのごとく濃紺のドット模様のアスコットタイと黄色いオックスフォード地のシャツで着くずしていたが、足元を見るとスラックスの折り返し(タ−ンナップ)がさも昔風でいかにもオジサンであることが判る。だから、せめてコートはダッフルでも羽織ろうとクローゼットの前で一瞬手をのばそうとまでしたが、どれほど寒かろうが、もう三月だということと吊るされたままの樟脳の匂いが気になって結局いつもの丈の短いシングルトレンチを選んだ。
妻はといえば、ペイズリー柄のシルクのスカートと軽い毛織のジャケットに、薄いピンク色のコートを合せていた。足元を覗くと、あまり踵(ヒール)の高くないフェラガモのパンプスを履いていた。いつ何処で買ったのかさえ知らず、さして興味もないので判らないが、たぶんバッグもフェラガモで、靴の色はネイビーなのにバッグの色はピンクだった。
それが一体どうしたというのだろう、しかしこの男の場合、靴とベルトの色や素材の組み合わせに頑固な拘りがあった。もちろん小粋な装いやビジネス、あるいは冠婚葬祭といった儀礼に応じて当然アクセサリー等も使い分けるというのはきわめて常識ではあるが、独自のスタイルに固執するあまり、たかがセンス云々のために一度ドグマに陥るともうダメだ、これが厄介でまったく融通が利かなくなるのである。若いころには「お出かけ」のたびに彼はよく妻と口論をした。でもやがて人生に疲れてきたためなのか・・・・二人子供を産んだ自分の妻が、着飾っていようがなかろうが果たしてどうでもよくなっていた。
だいたい、背広にしてもシャツにしても今ではオーダーメイドさえ誂えなくなっていた。老舗のブランドだってどうでもよい。良いものは良いのだが、悪くても安ければ納得する。良くて安ければ尚、いうことなしだ。今では、アクアスキュータムのコートを着たまま餃子の王将で堂々と餃子三人前を食べることができる。それも真っ昼間から、たった一人で餃子三人前と生ビールを注文する。また妻と回転寿司へゆき、恥ずかしげもなく大声で欲しいネタを注文することができる。会社帰りに立ち寄ったセブン‐イレブンの店先で、おでんを立ったまま食べながらカップ酒を呑むことができる、若いころにはとても出来なかった「あんなこと」や「こんなこと」が今では素面の顔でできる人間になってしまっていた。
まもなく勾配のきつい坂道をタクシーが登ってきた。裏庭のデッキから見下ろすと、ほったらかしのカルーナや、葉を落としたハナミズキのある小さな庭が、いくぶん荒れているふうな感じがした。ついこのあいだ燃やした落ち葉のあたりが黒く湿っている。そうしてふたり、コンクリートの階段を下りて裏門へ出た。ガレージの前に停まったタクシーにそそくさと乗り込むと、運転手さんが「やっとかめだわ。今日はどちらへ行きゃーすかなも?」と、毎度感じるハイテンションな口調で尋ねた。そのとき、男はとりあえず「――駅まで」と言おうとしたが、直接「目的地ちかく」まで連れて行ってもらってもよいのかも知れない・・・・と、思案をした。すると、その妻は巻いた栗色の髪を撫ぜ、「ちょこっと百円ショップまでだがね」そう言ってコンパクトを覗く。タクシーを呼んで夫婦そろって百円ショップへ行くなんて、よくもヌケヌケと平気な顔で言えるものだと思ったりもしたが、もうどうだってよい。
そのあと男は、「スガキヤでラーメン食べるつもりだて」と、昼食の予定もあえて運転手さんへ馬鹿正直に告げた。運転手さんは、名古屋人でありながらスガキヤを知らないと言う。「ラーメン通(つう)の御仁が行く店じゃにゃーで。たいがいはジャスコとかの中にあるんだわさ。お客は主婦とか女学生が大半で、おそらくこっち(中部圏)にしかにゃーチェーン店だわ。・・・・だもんでスガキヤって、ぶちマイナーな店かもしらんね」そこで男の妻は、運転手さんへ提案した。「だで、順番をかえてスガキヤへ行って百円ショップへ行こまい。今日は運転手さんのスガキヤ・デビューということで・・・・ウチらが御馳走させていただきますだわ」そう言いながらも男の妻は、坂道を下るタクシーの後部座席でソニア・リキエルの紅いリップを唇に塗ろうとしている。「すまにゃー、ほんでも次の仕事が入っとるもんでいけにゃーだわ」運転手さんは体よく誘いを断ったが、「残念だてね、また行こまい」薄いピンク色のコートを着た妻は、すでに発した言葉など、もうどうでもよいという顔でリップを塗った。
三月というと、月の前半と後半の季候が大きくかけ離れているのを十分、肌身で感じていた。男はタクシーが信号待ちで停まっているあいだに、ふと窓の外を眺めた。ちょうど見慣れた交差点のあたりだったが、卒業式へむかう親子を目にした。「まるでレミオロメンの歌でも口ずさみたくなるようなロケーションだがや」運転手さんはそう言ったが、男は、レミオロメンを知らなかった。「ちょっと、おみゃあさん。レミオロメンも知らせんなんて、たぁーけか。そりゃあ、天地がひっくりけーるくらいでえらいことだわ」妻は馬鹿にするが、知らないものは知らないのだから仕方あるまい。なのでトラウザーの裾に折り返しのある男は、さっそく話題を換えた。「まあひゃあ、桜の季節だわね」
そうして男は、中西圭三を知らなかった。いや、そればかりかジョーダン・スパークスもクリスティーナ・アギレラさえ知らなかったのである。しかしそれが彼の生活にあえて格別の影響を及ぼすということではなく、ただ美しい天使たちの歌声から遠く耳を塞いでいるだけの話という事実にすぎなかったのだ・・・・。