修羅を読む(9)
Giton
1 このへんで、自分の賢治観とか書いておくのもよいと思ったので散文にしてみます。賢さんが嫌いな人は読まないだろうし、この文章が嫌いな人はパスすればよいのだから、オタクのようにだらだら書いてしまおうと思います。
私はいままで知らなかったんですが、宮澤賢治は、ネットで詩を検索して見れるんですね。宮澤賢治会報で例会報告を検索すれば、詩の用語解説も簡単に見れて、ほんとに便利です。ただ、賢さんの場合、そういうのはあくまでも、ひとつの解釈、意見であって、参考にしかならないと思いますけどね。それほどに奥深く多義的な宇宙を賢さんは持っていると私は思います。
2 ちなみに、生前に周りの人たちからは「賢さん」と呼ばれていたそうで、...私は、「宮澤賢治」と呼び捨てにすると、世間に流布した賢さんの誤った虚像が浮かんでしまうし、直接会ったことがないのに「宮澤先生」も変なので、賢さんと呼ばせてもらいます。
3 少し自己紹介になりますが、大学を離れて以来、文学系の文章は書いたことがなくて、...いま本業では毎日文章を書いているんですが、ビジネス系、というより役所系、お上系でして、賢さんには、とうていふさわしくないので、結局、こういうネットっぽい駄文になってしまいます。いま、「大学を離れた」と言いましたが、たしかに当時は研究者をめざしてたんですが、文学ではなく、東洋史です。国文学はまったく知らないので、漢語文に「レ」を付ける読み方は、しちめんどくさくて、なじまないです。古典漢語は、現代の中国語と同じように普通に読み流したほうが、ずっとよく意味が分かりますよ!(笑)
ちなみに、中国でも韓国でも、現代語文のなかに古語の語法を混ぜるのは、ごく普通のことでして、魯迅しかり、…日本で、やれ文語だ口語だと言って目くじらを立てるのは、私にはまったく理解できない現象です。
3 いま、「修羅を読む(8)」までに出したのは、『春と修羅』第1集を読みながら、気になったところを自分なりに定型にまとめてみたもので、
(a)原テキストにない語彙は、できるだけ使わない。
(b)できるだけ私情を排除して、原作の心象の把握再現を目指す。
(c)独自解釈も大胆に持ち込む。
という方針を立てて取り組んでみました。
ただし、(4)だけは別で、詩「春と修羅」の登場人物から見た賢さん、町の人が見た賢さん、私の賢さんへの呼びかけ、などをえがいています。