宗教のための宗教とは(2)
生田 稔

今日は、神の権威と人の立てる権威について書いておこうと思う。権威を思い浮かべる時、そこに組織というものと結びつけて考えなけれならない。あらゆる組織はその各々の
権威の下に成立している。しかしアフリカにあるブッシュマンの部族では、そこに生きる人々は、ただすべて独特の「親密関係」と「忌避関係」に組織されており。親密関係にあるものは互いの持ち物を無断で使えるし、ふざけ合い、いじめ合うようなことをすることも許されているという。しかしまた近親婚を避けるため、互いの間に忌避関係があり親や子の関係にあるものは互いに結婚できない。(詳しくは岩波書店刊講座「哲学]第十四巻309ページから311ページをご覧ください)この二つの関係以外何の組織もないという。王や酋長や長のようなものは何もない。
 この社会が長い間続いているようなので、文明社会の見習うべきパターンをここに見るが、そのまま応用できるものではない。ここの人々は社会が小さいがゆえに、そのごとき単純な形態をもちうることができるが、異なった人種や巨大国特有の問題を抱えている国々にはすぐ適応できない。しかしこのブッシュマンの社会の構成は非常にプリミティブな注目するべきものである。
 人類の問題は正しい組織と世界一貫した教育による統治によるより他はない。聖書は国際的見地からはもっとも有用な権威を備えた神学的あるいは法律的また道徳的な資格のある経典ではなかろうか。聖書については、そのもっとも顕著な特徴は預言である。予言とはある種の運命を指すものではなかろうか。つまりかくかくことが起こると前もって言われてそのようになるのはそう言える。古のペルシャの王キュロスは巨大国バビロンを陥落させ、自分はイスラエルの神エホバの権威によつて当時の世界の国々の皇帝になる旨発布したとダニエル書には記録されている。
 イスラエルが神の言葉聖書を伝える機関として神に選ばれていたことは聖書の成立事情からして否めないことである。アブラハム・モーセそしてイエスに至る聖書の伝統はイエス・キリストの到来以来、全世界に知らされてきた事はじじつである。
 近い将来クリスチャンたちは、聖書の約束どうり、キリスト教徒としてイエス・キリストの前に出ることができるのではないか。しかしそのような裁きを受けるために神とイエス・キリストの前に出ることを誰も恐れることはないと思う。そこには地球の全成員がおり.御使いも代々のキリスト教の長老(神に選ばれた144000人の数にあらわされている人々)もいて取りなしをしてくださるであろう。残酷な刑罰とかいうものはその前には皆無であると私は確信している。私の知るところでは天国というところはブッシュマンについて書いたが、そういう社会によく似ているということである。神は王であると同時に親であり天使たちは子であり、復活して交わる多くの人々がいるということである。
 地上はこの天国によって千年間支配を受けねばならない。きっと愛の支配であろう。


散文(批評随筆小説等) 宗教のための宗教とは(2) Copyright 生田 稔 2009-03-11 15:16:58
notebook Home 戻る