宗教のための宗教とは(1)
生田 稔

宗教のための宗教とは(1)

 宗教とは実に人のため起こされたのでは、なかろうか。衆生済度が務めじゃぞとはある宗教家のお言葉である。私たちの尊敬するイエス様はどう述べておられるであろうか、この王国の福音はすべての国の人々のために全地に述べ伝えられるでしょう、それから終わりが来るのです。つまり王国の福音と述べておられる。
 イエス・キリストの宗教もやはり衆生済度である。ハルマゲドンの滅びで一挙に地球から悪が一掃されるという人々もいる。そういった人々の中にもハルマゲドンを信仰することはむなしい、それはだめだという人もいる。世に棲む悪人がみな滅びて、自分たち善人が全て生き残る。言い換えればその人たちはそう言いたいのである。私も務めて信仰と善に励みそうできるように渾身の努力をしてきたその人たちの仲間である。仲間を褒めることは簡単である。
 だから私たちの仲間にも沢山の美点がある。私達は人としてそう安っぽい人々であるとは思はない。でも私たちは自分たちだけ生き残るような超善人であるとは到底思えない。救われない人々が救われてはじめて、その宗教は価値があるのである。救われないものと救われるものとを二つに分けてしまうのはどうであろう。救出とは最大多数の最大幸福を意味せねばならない。イエス・キリストはキリスト教の王であるゆえにキリスト教をお救いになることが本筋である。それからほかの宗教にも手を、その救われたキリスト教を土台としてほかの宗教を救われるべきではなかろうか。あまり長いと読みにくいと思いこれぐらいに今日はしておく。
 


散文(批評随筆小説等) 宗教のための宗教とは(1) Copyright 生田 稔 2009-03-03 08:38:10
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