虹の走り
蘆琴
「もしそこのあなた、私が何か為になる話をしてあげましょうかなどと、素晴らしい湖の上空で関々と啼いたので、吃驚しなすった! そうでしょう、そうですとも、我々はいつまでたっても機械の歯車でございますから、淡々と打ち響く金鎚のテーマに生かされておるわけだ。力です。そこに働いている力こそが私の娘を女に仕立て上げる為に欠かせなかったわけなんで……ほら、――よく若い者が云うのを聞くでしょう、切羽詰まったら手前の身体を傷つけろと」
ディストーションを掛けたギターの鋭い音が皇居の方角から鳴ったとき、老人はたった三畳の部屋に光が満ちるよりも早く飛びのいた。ふいに呼び止められて憮然としていたツァラは、一瞬ぼうっとその様を見たが、すぐ追い討ちをかけるように片足を高く上げた。老人は驚いて目を見開いた。そして通りの泥水に倒れて、ツァラの外套に跳ねていく水飛沫を追った。「いや、そう怒ることはないぞ、少しくらい待ったっていいだろうが。俺なんかは親父が死んでから三十年、こうやって財産を切り崩しながら死ぬのを待ってるんだ、お前みたいな若い奴にちょっと睨まれたくらいで逝ってたまるか。だがな、ほら、真っ青になってるはずだ、きっと俺の顔は真っ白だ、どっちでも構わん! 何なら黄色だ、おう、そりゃ正常か」
ツァラに生じた怒りは顰めた眉の合間から抜けてしまい、蒸発していた。詰まらない老人の戯言に付き合うくらいだったら、新宿あたりにでも出て溢溢たる性慾を解放し、辺りに無償の愛をばらまき、代わりに快楽を受け取る方がよっぽど健全だと思った。「下らない! 若さは年寄りの慰めじゃない、墓石の手前でぐずぐずしながら過去を思い出す哀れな魂魄のための栄華でもない。おれたちの青春は、そういった屑どもを冥土に叩き込むための弾丸だ」と彼は呟いて、老人を射殺するような目で睥睨した。こちらはすがりつくように見上げて、瞳を湿らせている。
「おい、若いの」状況に合わぬ自信のある声だった。「知ってるぞ。お前さんの名前はツァラだろう、おぅ、本名だってな? どうみても日本人の癖に変な名をつけられちまったもんだ。哀れだよ。お前の前途を巧く表現してるんじゃないのか、ツァラ」
虹色の雨が降りはじめていた。細かな水滴が、若いツァラのまだ新鮮さを保つ肌によく馴染んだ。通りには二人を除いて車も人もなかった。彼は、再び脚を上げ、靴のつま先で老人の頤を指して云った「あんたの頭を、汚泥のような脳髄を蹴り飛ばすことは簡単だが、やめとこう。いいか、いつでも殺せるんだぜ。ほっといたって五秒後には死にそうな耄碌じじいめ!」
ツァラが喉を震わせて叫んだとき、老人は五拍子のリズムで走り出した。その後姿は薄暗い虹だった。