フラグについての考察の考察 —鑑賞について
パンの愛人

 以下は、唄子「俺、この戦争が終わったら結婚するんだ」に触発されたものである。多少批判めいたものになるかもしれない。

 とはいっても、じつは私も楽しく読んだ一人であって、これはひとえに唄子さんの筆の運びの闊達さによるものだと思われる。そのおかげで、読んでいるあいだは、たしかに違和感をおぼえることはあっても、それほど気にならない程度で済んだのである。しかし、いったん読み終えてみると、その違和感はいよいよ無視できないほどに膨らんできた。けっきょく、私はこの考察のほとんどに疑問を付さざるをえないのである。

 読んでいて真っ先におぼえる疑問は、「フラグ」の定義とその適応範囲の曖昧さである。「簡単に言うと『特定の出来事を起こすために満たすべき条件』といったぐらいの意味合い」だそうだが、「2.フラグの具体例」では、実例をあげることの方に唄子さんの興味がうつってしまっているので、説明としては不十分なように思われる。それに「特定の出来事を起こすために満たすべき条件」であれば、おのずとそのバリエーションには制限がなければならないはずである。でないと、理屈のうえでは物語の数だけフラグがあってもおかしくないわけで、そうなればフラグそもそもの意味がなくなってしまう。極端な話、ある登場人物が、「俺、この戦争が終わったらこいつと結婚するんだ」(恋人の写真を見せながら)という台詞をのべ、その後死亡もせず無事に恋人と結婚したとして、それもまたなんらかの「フラグが立っていた」とあとから説明することも可能になってしまう。
 この疑問は「3.ノンフィクションにおけるフラグ」にも通ずるもので、唄子さんは「考えてみれば、大人よりも、子供が殺される事件の方が大きく扱われるのは、『子供である』ということそれ自体がフラグのようなものだからであろう」というが、考えてみれば、これほどおかしな話はない。なぜかといえば、「子供である」ことが「特定の出来事(この場合は殺人)を起こすために満たすべき条件」であるならば、とっくに人類は滅亡しているはずだからである。
 したがって、私の考えでは、唄子さんのいう「フラグ」と「後付けフラグ」になんら違いはないということになる。この辺が、私のいう「定義の曖昧さ」である。

 「適応範囲の曖昧さ」については、たとえば唄子さんは「ミステリの世界にも伏線の上手い作家はたくさんいる(らしい)」としているが、そういう意味ではミステリーほど恰好のネタはないはずである。というのも、ミステリーは1ページを開いた時点で、すでに「殺人フラグ」や「解決フラグ」が立っているのだから。(もっとも、ミステリーは昔から「密室トリックの禁じ手」やらなんやら、いろいろと物語の展開に規則のやかましいジャンルであって、そのために伏線の出来が作品の成否を決することにもなり、その点では年々と洗練されてきているというのは事実である)これをノンフィクションに適応すれば、人間はうまれた時点で「死亡フラグ」が立っているということになる。なぜこれらが物笑いにあわずに済んでいるのか? それとも、どんなにいじわる読者でも、こういったフラグにたいしては寛容だとでも言うのだろうか? だとしたら、それはなぜだろうか?

 唄子さんの議論を支えているのは、文学的な素養のないと言われるいまのひとたちも、漫画、ドラマ、映画、アニメ、ゲームなどで大量の物語に触れることで、かえって成熟した鑑賞眼を持つ結果になっている、という認識である。しかし、「実際問題として、某巨大掲示板ではそうしたフラグを日々挙げては物笑いのネタとして消費さえしている現実」が、はたして成熟した鑑賞であるかどうかは、やはり疑ってみるべきではないのだろうか。

 こうした「恰好の笑い」や「物笑い」がなにに由来するか、私は知らない。あえて推測を述べれば、こういった態度は、一般的な意味での鑑賞とは違って、物語にのめりこまない徹底的なディタッチメントから生ずるものではないのだろうか。
 私は、いかにも形式化されたような物語であっても、素直な感動を呼ぶことは可能のはずだと考える。これはなにも、いじわるな唄子さんと違って私は純朴な人間だと言いふらしたいからではなく、それがごく普通だと思うからである。それに、どんな鑑賞者も物語だけを享受することなどはありえない。おのおのメディアによって、おのずとそれ相応の付加があるからだ。文学であれば文章のうまさで読ませることもあるし、映画であれば映像美やサウンドトラックなどによって惹きこませることもあるだろう。そのようにして考えてみれば(これは私自身の経験によるものが大きいかもしれないが)、唄子さんのいう「鑑賞」があまりに皮相的なものに終始しているきらいがないとはいえない。どういう意味で、昔に比べても「創作物を鑑賞する」という行為に長けた人たちが増えてきているというのだろう? 私は実証的な考察はできないが、鑑賞に長けた人たちの数は、昔も今もせいぜい横ばいで推移していると見るほうが妥当なように思われる。
 もっと大きく出れば、このような現象は、ニヒリズムの蔓延として捉えることができるかもしれない。

 日本の詩は口語自由詩で発展してきたから、形式に馴染みがたいものがあるのはたしかだが、これがたとえば外国の詩ならば厳格な韻律法がある場合もあるし、起承転結なども一種の「フラグ」と見做すことも可能なはずである。枕詞などその典型となりうるだろう。
 要するに、私は「フラグを立てたとき、全く読者・観客に感づかれなければ、後に素晴らしい効果を挙げることができる」だけでなく、それがバレていたとしても、素晴らしい効果を挙げることができる場合もあると思うわけで、それがエンターテイメントの威力とだと考えるのだ。(ちなみに、唄子さんの議論は全体としてエンターテイメント作品にしか通用しないテイのものである。いわゆる純文学や芸術指向のつよい作品は、こういった「物語の要素」には最初からそれほど拘泥していないからである。)

 ともあれ、アラを探そうといじわるな読みかたをしていても、また、せっかくそのアラを見つけ出したのにもかかわらず、けっきょく感動させられてしまう作品があるとすれば、それこそがそのひとにとって本当に運命的な作品なのであろう。
 しかし、はじめから嘲笑のネタをもとめて作品に取り掛かる姿勢は、最終的に鑑賞の貧困化を招来することになりはしないだろうか?


散文(批評随筆小説等) フラグについての考察の考察 —鑑賞について Copyright パンの愛人 2009-02-13 04:11:50
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