業務日誌
竜門勇気
俺は、仕事に取り掛かっている。
この仕事はとても大切な仕事だ。なぜならば、 菩薩(部長クラス。すごく怖いし、すぐに怒鳴る。怒鳴ると、痰のような細かいどろっとしたものが飛んでくる。だから怖い。) がそうおっしゃったからだ。
業務の内容は ”前” から流れてくる、 ”物事” を分けることだ。
物事が、 「大切」 ならば問題はない。そのまま流す。流して溜める。
俺の持ち場の遥か後方には ”地層” がある。 ”地層” は柔軟で、どんないびつな 「大切」 な ”物事” であろうと何年もかかってあつらえた革靴のようにピタリとそこに収まるようにできている。
まず流れてきた ”物事” は 「振り返ると、もう終わっていたと思い込んでいた花火が一つだけ打ちあがった」 だった。かなり巨大だ。よっぽど印象深かったのだろう。
俺は迷うことなく ”左” に受け流す!一度完全にボディで勢いを殺した後、全体重を乗せてボディをひねり 「振り返るともう終わっていたと思い込んでいた花火が一つだけ打ちあがった」 を ”左” の 「おばちゃん」 に受け流す!
余りの 「振り返るともう終わっていたと思い込んでいた花火が一つだけ打ちあがった」 の重さに俺はくたびれ果て崩れるようにへたり込んだ。
遠くで 「おばちゃん」 が 「振り返るともう終わっていたと思い込んでいた花火が一つだけ打ちあがった」 に 『よかったねえ〜、キレイダッタァ〜?』 などと言っているのが聞こえた。
「おばちゃん」 に気を使われた瞬間に ”物事” は艶を失う。 ”スニーカー” が、 ”ズック” になる。 ”ミュール” が ”ツッカケ” になる。 ”ジュリー” が ”ヒッピー” になるのだ。
砕けた腰で、汗とよだれをたらしながらある若者のひと夏の思い出が黄ばんでいくのを確認すると、俺は立ち上がり身構えた。へとへとではあるがやれないことはない。
これが俺の 菩薩(飛び散った痰を拭き取ろうとするとまた怒鳴る。怒鳴ることによって彼のカルマが浄化されていく。) から授かった唯一の使命であるからだ。
眼前に迫りくるのは
”彼女がそれをみて「次の花火が上がるまで、手・・・つないで待ってようか」と言った
”
という ”物事” だ。しかもその後ろには、
”朝日に浮かんだ彼女の横顔は太陽よりずっと輝いていた”
が連なっている。こいつ、詩人だ!めんどくせータイプの!さておき。
これは厳しい。難しいジャッジだ。合わせ技一本。
人生は選択の連続である。しかし、いつでも ”0”と”1” で動く機械のままではいられないのだ。そのハザマを、 ”0”と”1” の分水嶺を決めるのはいつも人なのだ。
俺は決心した。 菩薩(浄化された彼は美しい蝶になった。可憐な燐粉を零しながら、大いなる輪廻を自由に飛び回った )の意思とは違うかもしれない。
子供じみた安易な感情論かもしれない。
しかし、俺は俺の現在に ”嘘” を持ち込みたくはなかった。この ”物事” は決して色あせてはならない。子々孫々に語り継がれなければならない。
ポケットの中のお守りを握り締める。粗末だが頑丈な ”ズタブクロ” のなかの俺の残された唯一の ”物事”
”ベストを尽くしたが、駄目だった”
を強く握り締めた。
俺は小さく今にも消え入りそうな ”彼女がそれをみて「次の花火が上がるまで、手・・・つないで待ってようか」と言った” を手のひらでそっと掴んだ。指の間から漏れる光がまだ凍える前の、温かかった自分の体温を思い起こさせた。
悲しくて涙がこぼれた。しかしその理由は分からない。それを教えてくれる ”過去” を支える ”物事” が俺にはないからだ。垂れ落ちる涙と ”剥き出しの悲しみ” が震えている。俺の中で、確かに。
俺は大きく振りかぶった。頭では ”外敵を威嚇する猿” をイメージしたが上手くいかなかった。狙う先を睨みつける。ひらひらと可憐な毒を撒き散らす ”奴” をめがけて”今ここにある感情”をぶつけろ!
しかし次の瞬間。力を込める寸前。俺のこめかみに光と影が流れ込んできた。
あまりの眩しさと絶望に身が震えた。
菩薩(輪廻を飛び交う蝶はやがて翅を休めるとパリパリと音を立て、驚くべきことに二度目の羽化を果たした。古き肉体から、俺の”物事”が”過去”が帰ってくる。可憐な毒が)に向かって振り上げた腕を俺はゆっくりと下ろした。
そして、そっと ”左” に投げた。
「おばちゃん」 の嬌声が聞こえたような気がした。それを俺は聞いてはいけないような気がした。
目を閉じる。何も聞こえない闇に俺は身を投じる。これでよかったに違いない。きっと間違ってはいない。
誰にとっても過去が素晴らしいってことは、ろくなもんじゃないはずさ。
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