人魚・終 〜開放〜 【小説】
北村 守通
コーヒーのおかわりをきっかけに、小休止することにした。私達が始めたのは、とりとめのない世間話であったり、身の上話であった。蝋燭は、相変わらず影を持たずして揺れていたが、それは極めて自然なことに思えたので、特に話を戻すということはしなかった。
楽しい時間が過ぎていった。
少なくともそれは私にとってであったが、彼女にとってもそうであることを願った。
「そういえば」
まだ若干余韻を引きずっている笑いを落ち着かせながら、彼女が始めた。
「この辺りにはね、人魚にまつわる幾つかのお話が伝わっているの。」
あまり、いや正確にはまったく、耳にしたことがないことを正直に打ち明けた。
「昔、むかぁし、ある年老いた漁師の網に、一人の人魚が掛かってしまっていたんですって。」
語り部となった彼女は天を仰いだ。当然そこには空はなかったが、それはあくまで私の様な現世の者にとっての話でしかなかったのかもしれなかった。そして彼女は、私にではなく天に向かって語りかけていたのかもしれなかった。私は黙って傍らからそのお話を見守った。口を挟む余地は無かった。
彼女が語って聴かせていたお話というものは、私も小さい頃に聞かされた童話だった。漁師に救われた人魚は、お礼に漁師夫婦の娘として彼等の手助けをする。娘となった人魚は、夫婦の家計を助けるために蝋燭を作り、売り始める。この蝋燭には魔法が込められており、海にまつわる幾多の人々を救い、やがてこれが評判になる。しかし、一方で優しかったはずの老夫婦は、痩せ衰える娘の想いをよそに強欲に走り、人魚の失望をかってしまう。老夫婦のもとを去る前に人魚は、赤い、血の様に真っ赤な蝋燭を作る。そして、決してこれらは売らないように、火を灯さないように、と遺して去るのだが、強欲になってしまった老夫婦は、やはりそれらもこれまでと同じ様に売りに出してしまう。
これが災いを呼び込む蝋燭とは気づかずに。
赤い蝋燭が灯された日には、海に災いが呼び込まれる。老夫婦は村を追い出されることとなった。
確かこの様な内容だったと思う。全てを語り終えた彼女は、まだしばらく空を見上げていた。今度は私の番だった。
「火は何故消えないのでしょう?」
「灯してはいけなかったのです。いえ、灯される可能性があるのならば、最初から作るべきではなかったのです。」
やはり天を見上げたまま、彼女は答えた。
「たぶん」
蝋燭に目をやりながら考えた。
「許してくれる人がいなかったのでしょう。そんな蝋燭を作ってしまった彼女のことを。一人で苦しみ、一人で胸を掻き毟られていたのでしょうね。誰に許しを乞えるでもなく。自分自身を苦しめるために、自分自身に重い、重い鎖を巻きつけていたのですよ。」
私は静かにゆっくりと決意を固めていた。確証もなければ確信すらなかったが、そしてこれから成そうとすることは、彼女を失うことになるであろう結末が想定されたが、彼女がこれまで味わってきたであろう鎖の重さが、全てにおいて優先された。失くすとわかっているのならば、持つべきではなかった。
「でも、それも今日で終わりです。」
私は蝋燭を再び手に取った。この弔われることなき光の行き着く先は、別のところにあるはずだった。彼女はこれから何が起こるのか解らない様子で、蝋燭の方を見つめるしかないでいた。私は彼女の手をとり、黙って提案した。私の手は密かに震えていたが、彼女の手はそれ以上に震えていた。そして私のものよりも温かく、やわらかい様に感じられた。
風は以前よりは弱まり、強すぎることなく頬に心地よかった。小康状態にあった。蝋燭の火は相変わらず煌々としていたが、気持ちばかりそれは以前よりも弱々しかった。しかし、やはり風がどのように吹こうとも、決して消えることはなかった。
決断を実行に移すに当たって、私はもう一度この海辺を見渡し確認した。服はもうすっかり乾いていたので、自分が望む以上に落ち着いて行動をとることができた。勿論、先ほどと同じ過ちを犯さないために、波打ち際との距離を充分にとっておくことも忘れはしなかった。震えている彼女に勇気を与えようとでも思い上がっていたのであろうか、私は彼女の方に向き直ると、ごく自然に笑って見せた。彼女は首を横に振った。そしてうつむいて何度も首を振った。
「この灯は、この灯は!」
続かぬ言葉の先を私なりに察した。そして躊躇したけれども、勇気を持って彼女の肩に手を置いた。
差し伸べた手を彼女が握った。
やはり私のほうが冷たかった。
「この灯は決して呪われた灯なんかじゃぁありません。この蝋燭も心を救うために生まれた、やはり優しい蝋燭なんです。そして火を灯しては泣いていた。涙の代わりに火を灯し、大切な人を救えなかったことを今までずっと嘆いていたのです。悔やんで、悔やんで悔やみきれなくて、どうしてよいか解らないままでいたんですよ。」
空は待っていてくれた。
「だから、消すだなんてことしなくてもいいんです。」
私は蝋燭を自分の顔の前にかざすと、その様子がよくわかるように彼女を私のすぐ隣に立たせた。
「放してやればいいんですよ。」
私は大きく息を吸い込むと、丁寧に、しかし力強くそれを目の前に注いだ。真っ黒な芯が私の目の前で剥き出しになり、そして世界が真っ黒になった。
「何処に行ってしまったのでしょう。」
震える声で彼女が問うた。
私は振り返らずに指で指した。
「ばらばらになってしまったから判りませんが。あれかもしれないし、もしかしたらあれなのかも。」
漆黒のキャンバスでは、光のかけら達が、決して輝きを失うことなく瞬きを繰り返していた。私はしばらく一人でそれらを見上げていた。風はいつしか止んでいた。人魚は既に私のもとを去っていた。握り締めていたはずの、あの赤い蝋燭もいつしかなくなっていた。多分、創造主のもとに返ったのだろう。
もう彼女が海と陸の狭間で、一人で思い悩むこ必要はないように思われたので、私も適当な頃合を見計らって帰ることにした。
その前には勿論、一夜の宿と温かいコーヒーへのお礼と、さよならを決して忘れはしなかった。
<終>