人魚・3 〜対話〜 【小説】
北村 守通
「見えるのね。」
返答することに戸惑い、躊躇する私を見て、彼女は自分の得ようとしている答えを得ることができた様だった。同時に私も一つの情報を得ることができた。
私の足元に存在し、燃焼し、発光しているそれは、私以外の第三者にも視覚による認識が可能な物質であるということ。つまり、私の視神経が捉えた映像が、決して錯覚ではないという結論に近づいている、という認識である。しかし、それにしては彼女の発言は不可解だった。その答えは、たぶん彼女しか知らなかった。潮のせいではなく、ぐっしょりと湿った背中が、空気が動き始めたことを察知した。時は動き始めたが、私たちは動くことができないでいた。否、動けなかったのは私だけなのかもしれない。
どれくらいが経っただろうか、私はもう一つ、彼女が声を掛けるまで実行しようと考えていたことを思い出した。結果、最終的には当初の目論見は見事に裏切られて、やはり頬も波に打ちつけられることとなってしまったが、視覚だけでなく触覚もまた、その存在を認識することができた。得られるべき情報は全て手に入った。ただ、彼女以外を除いては。
波が不意に私の背中を押した。
心の準備が整っていなかった私は、重心を崩され前に進み出るしかなかった。
「持ってきてしまったの。」
私が知り得るもっとも悲しい色で、彼女の澄んだ瞳は私の左手に握られた円錐状の物体を見つめていたが、やがてそれは私の濁った硝子球に向けられた。不慣れな私は血液の逆流を感じ、耐え切れなかったので、おもわず視線を逸らした。
幸い、彼女は察してくれた。そして風が吹いてきたこと、これから嵐になるかもしれないことを理由に、場所を移すことを提案した。ずぶ濡れになってしまった私は暖もとりたかったのでその提案に従った。
蝋燭は
地上にあっても変わることなくゆっくりと輝いていた。むしろ、それが本来あるべき姿だったので、私は自分がやはり夢を観ていたのではないかと思ったが、析出し付着し始めていた塩の結晶がその考えを否定した。
「ここ」
沸騰した液体をカップに注ぎながら彼女は続けた。
「去年で閉めたんですけど、まだ買い手もつかなくて。」
割り切れない想いもあって、今でも時々掃除だとか、手入れだとかに来てしまうのだ、と彼女は言った。ありきたりの海岸で、ありきたりの名前の周辺施設の顛末だった。私はごくありきたりに同情し、ごくありきたりのねぎらいの言葉を掛けた。それ以上の言葉は思いつかなかったし、仮に思いついたとしても結局はそれは嘘になってしまっただろうということがわかっていた。
窓ガラスの向こうで風が啼いた。
雨は何時来るのだろうか。
雷も来るのだろうか。
二人とも外の様子は気になったが、決して外に出て状況を確認しようだ等という馬鹿げた考えには至らなかった。私達は視点を再びカップに戻し、これから何を話すべきかを考えた。差しあたっては私が自分自身が何者であるかを話しておくのが筋であるように思われたので、その考えに従うことにした。私が海中から回収してきた物質についてを語るにはまだ早かった。
「今、何時くらいかしら。」
反射的に私は自分の腕時計を確認したが、持ち主に相応しい値段で購入されたそれは、潮水をたらふく飲んで溺れていた。死亡時刻は二十二時四十三分だった。そして、そらからもう四十分ほどが経過しているのではないだろうか、と彼女に告げた。彼女は大きくため息をつくと、決心した。
「今日はここで泊りね。」
そして私にもそうすることを勧めた。私は、得体の知れない異性と一夜を共にするなど危険ではないか、と進言したが彼女は、あなたはきっとその様な行為は行わないだろう、と笑って答えた。それが私のはじめて見る彼女の笑顔だったということに、少しして気がついた。私は心から素直に礼を言った。
「こちらの方はよくいらっしゃるの?」
「どうにも寝付けない夜は、散歩がてらに時間をつぶしてます。」
「お一人で?」
「考え事だけしか考えつかないときには一人に限ります。」
「あら!」
少し意地悪そうな顔をこしらえてみせてから、彼女は続けた。
「そうしたら、今日はお邪魔だったかしら?」
私はお返しに笑ってみせ、その間に先日の夜のことを思い出した。そしてそのことを彼女に打ち明け、決してあなたの時間について干渉するつもりはなかったのですけれども、と弁明した。幸運なことに彼女の許しを得ることができた。ただ、彼女の瞳が再び光を失った様に思えた。
「あのとき」
蝋燭の方に目をやりながら、彼女は話を進めた。それはたぶん、私が先ほどまで解明させたいと考えていた謎についての解答に関することと思われた。私も一緒に蝋燭の方に目をやった。もうあれから充分な時間が経過している筈なのに、それは決して時間が経過していない様に見えた。
「私も考え事をしていたの。でも、結局答えが見つかるわけでもなかったけれど。もしかしたら、ただ答えが無い、ということを見つけるために考えていただけなのかしら。今となっては何に対する答えを得ようとして考えていたかも忘れてしまいましたわ。」
逆流する血液を抑えながら、私は言葉を捜した。見つからないまま私は、その横顔から目が離せないでいた。
「嵐が来るの。これが灯された夜は。」
幾度か、この頬の上を滴が流れていったのであろうか。それはやはり私の知り得る範囲外の世界であったが、それでも私は果て尽くし、もはや流すもののないように思える彼女の瞳を想わずにはいられなかった。
「こいつは」
私が放つべき言葉が、今やっと見つかった。
「確かに海の中にありました。そして海中にあって火を灯していた。」
彼女の視線が私のほうに戻された。
「あなたはこうもおっしゃりました。『見えるの?』と。触ることも出来た。つまり実在するであろう物なのに。」
私はもう少し続けるべき言葉を捜したが、彼女の指先がそれを遮った。きっとそれで充分だったのだろう。私には求めている答えがどういった類のものであるかということについては、あらかた想像はついていた。問題なのはそれが意味しているものだった。彼女には時間が必要だった。私は、彼女がどことなく悲しげに見えるのは、それは決して悲しみなのではなく、憐れみだったのだと、この時ようやく気がついた。
その憐れみを蝋燭に向けながら彼女は静寂を破った。
「現世には見えない物。そして存在しない筈の物。望まれずして産声をあげてしまった物。それでも火を灯し続ける。誰の為というわけでもなく。そして火の勢いが強くなって、誰かがこの蝋燭に灯る火を見つけてしまったとき、海に災いが招かれるのです。誰も消すことのできない火なのです。」
私は、もう一度蝋燭の方に目をやった。何処にでもある様な蝋燭であったが、この部屋に案内されてから、蝋燭を立ててみてから何か不自然なものを感じずにはいられなかった。それは、決して短くなる様子のない、ということでもあったけれども、真相はもっと別のところにあることに、再度の観察から気がついた。
蝋燭には影が無かった。
蝋燭の火に照らし出されているもの、勿論これには影がある。だが、この蝋燭自体の影はまったく存在していなかったのである。私は納得し、その後続けられるであろう彼女の解説を待った。彼女は少し微笑んでみせて、私の心の準備を確認した。私も合図を送った。
風は以前にも増してその勢いを強めていた。
時々、建築物そのものが揺れ、炎もそれにあわせていた。