人魚・2 〜蝋燭〜 【小説】
北村 守通
嵐はまだ訪れてはいなかったが、それは時間の問題であるように思われた。一度風が吹き始めれば、それが合図となって世界が歪み始めるはずである。やはり確証無き確信に過ぎないことではあった。ただ、じきに遭遇するであろう風の気配というべき空気の淀みは感じていた。タイムリミットはもうすぐだった。いい加減諦めるべきなのであろうが、ぎりぎりまで彼女を待つことにした。筋違いな話であるということは十分認識していたが、私は自分の心の中に苛立ちが芽生え始めているのを覚えた。
何に対して?
あの日の不用意な一言を放ってしまった自分自身に対してか、それともこの裏付けの無い試みに成功したとし、彼女と再会できたとして、一体何を成そうとしているかが未だ不明のままであるこの時間に対してなのか。あるいは揺らぎつつある一類の望みに対してか。
いずれもが真だった。それでも私の足はその場所に変わらずあって、動き始める気配がなかった。靴の中が砂にまみれていた。私は、彼女のそれらが海の中にあったことを思い出した。
あれからどうしたのだろうか。
着る物を台無しにしてまで決して温かいとはいえない水の中に立ち、映らぬ瞳に何を焼き付けていたというのだろうか。いつもそうして立ち尽くしていたのだろうか。あるいはこれからそうするのだろうか。もしかしたら、偶然私が居合わせたときに、偶然彼女もそうしていただけなのかもしれない。そして翌日からは私の知り得る範囲外の世界で、私の知り得る範囲外の生活を営んでいるのかもしれない。
いずれにせよ、考察するには資料が少なすぎるのは明白だった。勿論、解が得られたにせよ何があるというものでもないのだが。しかし、それでも私には、残された僅かな時間を無意味にしないために為すべきことがある様に思われた。私は立ち上がり、ほとんど無意識のうちに波打ち際に足を向けた。それで彼女の視点が再現できるというものでもなかった筈なのであるが、思いつくことといえば多分それしかなかったのだろう。
私の向かおうとしているその先では、憐れな銀色共が今にも黒い海底に引きずり込まれそうになっていた。いっそ重力に身を任せれば楽になれるものを、ヒステリックな精神状態に陥って最善の策を思いつけないでいるのかもしれない。不測の事態というものは、巻き込まれてしまった当人から適切な判断力を奪ってしまう。そして最も厄介なことには、そんな状況を見かねて助けに入った第三者をも、悲劇の巻き添えにしてしまうことにあった。今宵も例外ではなく、波は私を襲った。膝から下がぐっしょりとなり、ひどく悲しくなった。
異常を察したのは、私が自分自身の被害状況を確認するために視点を下に移動させようとした正しくその時だった。波の表面の銀の色の下に、反射ではなく自らが発光している何かがあった。もはや潮の洗礼を既に浴びてしまっていた私は、躊躇うことなくその物体が何であるかを確認するために進み出た。光は時々不安定に揺らぎながらも、その明るさだけは失うことなく、そして移動することもなく私の目の前に迫った。潮は私を思いとどまらそうと必死になったが、私は幾許かの戦慄を背中に感じながらも彼等、あるいは彼女等の好意に従わなかった。そしてそのことを後悔することになった。
最初、私はそれが根掛かりでもして置き去りにされた憐れな電気浮きか何か、だと思っていた。しかし、形状を視覚によって識別するのに充分な距離まで達したとき、その想定が全くの希望的観測による誤りであったことを痛感せずにはいられなかった。
思わず息を呑んだ。
自分自身の考えられる物理現象の、何れをも否定する物体と現象とが私の足元にて展開していた。
水深五十cm程度であろう、その世界に赤い、血の様に真っ赤な蝋燭が煌々と海中を照らし出していたのである。
当然のこととして、私はまず自分の目を疑った。しかし、何匹かの小魚が、光に集まっては私の存在に気づき、砂煙をまいて再び漆黒の彼方に消え去るのを見て、それが決して錯覚などではなく、実在するものを映像として認知しているのであろうという結論に達した。そして、自然と次にとるべき行動を考え、それを実行に移そうとした。波が私の頬をかすめた様に思えた。一瞬、不測の事態にたじろいだが、体勢を整えなおし、もう一度手を差し伸ばした。火は、やはりそこで変わらず揺らめいていた。
「見えるの?!」
はじめ、それは私のすぐ後ろで発せられた様に聞こえたが、実際にはもっと遠くからだった。先ほど、私が潮の洗礼を受けたであろう場所に声の主は、私が一方的に再会を望み、幻想を抱きながら待っていた待ち人は立っていた。
やはり月も星も、そして雲さえなかった空の下で、私は彼女と対峙した。