私にとっての詩人に出会うということ
ヤオハチ
詩人に出会うということを考えるにあたり、詩と出会った時のことを思い出してみる。
可笑しな話だけれど、詩人に出会う以前に自分の抱えていたものたちは詩ですらなかった。
目の前にあること、ずっと昔にあったこと、近くにあること、遠くにあること、
自分の中の、基準のよく解らないものさしのようなもので計ると、
それは小説とかに比べるとはるかに不親切な尺度で計られている分ぐにゃぐにゃで、
でも自分には確かにその色でその温度でその角度で存在したもの。
それを、ちゃんと言葉で紙に書き留めることができてホッと息をついた。
そうそう、こうだったんだ。きちんと正確に書くことができた。
書き留めた物のことは、もちろんある種の詩だと思ったし、詩と呼んでいた。
でも、私が書き留めたものが 『ある』 かは分からなかった。
ともだちや恋人は、私の詩を好きだと言ってくれた。
よく分かんないけど、好きだと。それは、とても有難い話であった。
と、同時に終着点ということだった。
人に好かれてしまえば、別にそれでよい話なのである。
その続きを書く意味なんてなかった。
でも、私は自分に見えた物の続きが見たかった。
だから見ることは止めなかった。考えることは止めなかった。
それは同時に、一人であることを認めてしまったということだった。
人の優しさの中に紛れて生きてしまえるということだった。
私はトカゲのしっぽのように元気であった。
そんな時、詩人に出会った。詩人は、当たり前のような顔をして現れた。
詩人と出会うということは、自分の詩が好かれるということではない。
そんなもん 『ある』 に決まってるでしょ?何のこと?と言われること。
つまり、詩人に出会うということは、詩が 『あり』 詩人が 『いた』 ということに他ならなかった。
それは、これから書くものも 『ある』 のだということ。
それは、書かないといけないのだということだった。
私にとっての詩人との出会いはそういうことだった。
そして、
今では当たり前になってしまった詩人の存在と出会えなかった可能性については
これ以後、極力考えないことにしたのだった。